October 11, 2018

細井和喜蔵「女工哀史」

これも1980年頃買っておるようです。

書名:女工哀史
著者:細井和喜蔵
出版:岩波文庫(1954年7月第1刷)、原著は1925年。


《目次》

まえがき
自序

第一 その梗概

/人類生活と衣服/衣服を造る労働/母性的いとなみ/人類文化と紡織工の使命/近世工業労働者としての紡織男女工発生/紡績機械および力織機の発明と産業革命/日本における紡織業の歴史/現在の紡織業とその労働者/世界紡織工業界における日本の地位/我が紡織業発達の沿革/一般労働界における繊維工業労働者の地位/等

第二 工場組織と従業員の階級

/工場および労働者の分類/産業別/大小別/技術別/大量生産主義と徹底的機械作業による極度な分業化/各部門における男女および年齢別労働者配置の割合/紡織会社とその工場組織/工場事務所の組織/従業社員ならびに職工の階級/等

第三 女工募集の裏表

/職工傭入れの一般について/労働者募集取締令の発布/女工募集の第一期/無募集時代/女工募集の第二期/工場の増加と女工虐待による募集難/募集難の対応策/女工募集の第三期/募集の方法/募集人という者/募集人の罪業/地方募集/女工募集の宣伝ビラ/募集人の対話/市内募集/誘拐と争奪/身代金制度/募集会計につき/人事係の宣伝方法/貸付金のこと/宣伝用に建てた一千円の便所/活動写真班の派遣/等

第四 雇用契約制度

/年期制度と一方的証文/証文の文例/年期制度を遵守せしめるための積立金/期限中退者の保信金没収/体格検査/辞職勧告と称する解雇方法/労働者永続策/満期賞与と年功割増金/結婚奨励策/等

第五 労働条件

/紡績工場の労働時間/夜業と両番のこと/深夜業/徹夜業の創始工場/交代日/労働者の無智を利用する残業策略/休憩時間について/紡織工場の賃金制度/賃金制度の分類/職業別による各例/織布部/紡績部/ハンクということ/時間給すなわち日給者の場合の各例/紡織工賃金の一箇年平均/同十九年間の統計/給料の支払方法/賃金分与制としての賞与/給品制度と兌換券の発行/鐘紡の職工待遇/同上女工虐待/等

第六 工場における女工の虐使

/女工虐待の第一期/懲罰制度/罰金制度/女工虐待の第二期/工場における自由競争/幼年工についてこれが発育に及ぼす害悪/強制定額制度/強制定額制度ゆえの不正手段/夏期精勤奨励法/模範女工表彰政策/一女工の記念碑と女工道の典型/等

第七 彼女を縛る二重の桎梏

/寄宿舎における女工の桎梏/それは繊維工業婦人労働者の特有事情/外出の制限/門止め/食物、読物等の干渉/強制的に読ませらるるリーフレット/書信の干渉および没収/強制的送金ならびに貯金制度/女工の送金に関する統計/室長、世話婦、その他係員の横暴/個性と婦人美を無視した女工の服装制定/綿服主義の東洋紡績四貫島工場/等

第八 労働者の住居および食物

/女工寄宿舎の構造/奴隷の島/職工社宅/人体とカロリイ/塵埃中にて過激な労働する者の失う熱量/工場の賄について/一賄に要する諸材料の価格/職工の食費/等

第九 工場設備および作業状態

/工場設備/湿度、温度、音響、塵埃/工場の空気に対する含有湿度のパーセント表/同上塵埃飛散の状態/同上紡織工の吸う量/標準動作というもの/等

第十 いわゆる福利増進施設

/医療機関について/保育場/東京モスリンの例/扶助、保険、金融/業務上の事故に対する工場法規定の六会社職工扶助例/相互扶助の一例/等

第十一 病人、死者の惨虐

第十二 通勤工

/通勤工と寄宿工との待遇差別/指定下宿というもの/二重に職工の膏血を搾る寄生虫/指定下宿と工場の結託/宿泊人の勘定取立の代理/職工の金融機関に使わるる貸金制度/物品の立替と顔利き/指定下宿の暴君/指定下宿の風儀/渡り鳥/等

第十三 工場管理、監督、風儀

/紡績会社と官省および警察署/労働婦人と淫売婦や遊閑階級夫人をはき違える刑事/工場の風儀問題/工場における監督階級と女工の関係/紡績工場と無頼漢/暴力是認の工場管理法/標準動作監視機関としての工場調査部/等

第十四 紡織工の教育問題

/男女工の教育程度/工場における教育的施設/私立尋常小学校/職工長養成機関としての専門的中等学校/工場の女工教育方針ならびにその効果/男工および女工のつくる縦の会/社報の発行/工場歌に含む資本主義的精神/四会社六工場における工場歌/技術偏重主義の無能/能率不信の根本義/真の能率増進策/女工の養成/新入素人工の養成規定/養成事項/等

第十五 娯楽の問題

/工場内の娯楽的施設/演芸場/鎮守社/遠足および運動会/東京のお花見/大阪の運動会/辛辣なる作業の競技/恩恵的に与えらるる娯楽的施設の可否/娯楽の強制/工場音楽の提唱/等

第十六 女工の心理

/女工心理存在の理由/愛に対する観念/女工の恋愛観/近親愛/友愛/道徳観/貞操について/孝心/叛逆性/文明怯懦性/男工軽蔑の心理/家庭生活の破壊性/充分なる自活能力/無智に基づく宿命観/愁郷病/センチメント/女工の嫉妬心/女工特有の表情動作/工場に発達する社会語/精神病および負傷の考察/負傷時の心理状態/疲労および活動力と負傷の関係その他/或る悲惨な心理につき/女工の争議/工場生活と精神病及び変態的諸心理/惨ましき狂者/女工の中性的心理/同性愛/手淫症/等

第十七 生理ならびに病理的諸現象

/繊維工業労働者とテキスタイル病/紡織女工および製糸女工と結核病死亡者/紡織工と消化器病/脚気および感冒/眼病/女工と婦人病/不妊症/女工の出産率/紡織工の乳児死亡率/等

第十八 紡織工の思想

/労働組合/工場委員制度/東京モスリンの工場協議会/工場の自治と立憲運動/等

第十九 結び

/人道問題としての女工問題/工場改造と義務労働/かくして築かるる理想社会/以上

附録 女工小唄(音符入り)

解説(大河内一男)

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October 07, 2018

菅山真次「「就社」社会の誕生」

図書館で借りました。

書名:「就社」社会の誕生 ホワイトカラーからブルーカラーへ
著者:菅山真次
出版:名古屋大学出版会(2011年1月初版)


《目次》

序章

1 問題の設定
{・・・よく知られているように、それ以前の日本は、就業人口の半分が自営の家族農業に従事する第一次産業を中心とする社会であって、小商いを営む者や職人もかなりの数に上っていた。これら「庶民」の子どもたちは、いずれは雇用の機会をみつけるとしても、学校を出てからも数年は家にとどまって、家事や家業を手伝うのが普通だった。彼ら・彼女たちにとって、「学校卒業=就職」という考え方は無縁のものだったのである。
農業人口が急激な減少を開始して日本社会が「雇用社会」へと急速な変貌を遂げていくのは、戦後も数年を経た1950年以降のことである。就業人口に占める農業従事者の割合は、50年の48%から70年の20%へと急減した。かわって、同じ期間のうちに、被雇用者の割合は52%から81%へと急増した。このような戦後日本社会の構造変動をもたらしたものが、農村から都市へとむかう若年労働力の巨大な流れであったことはよく知られている。なかでも、この時期に、中学校を卒業して直ちに就職した新規学卒者の果たした役割は大きかった。毎年、桜の花の咲くころに、東北の農村から「就職列車」に乗ったまだ顔に幼さが残る15歳の少年・少女たちが、中学校の先生や職安の係員に引率されて上野駅に到着し、出迎えた雇用主に引き渡された。その光景は、「集団就職」という巧みなキャプションをつけて、マスコミによって大々的に報じられた。こうして人びとの心に焼き付けられた「就職」の原風景こそが、「学校卒業=就職」という考え方を日本社会の新たな「常識」としたのである。
それだけではない。1950年代以降の高度成長は、人びとの就業=「就職」パターンを大きく変えただけに止まらない。高度成長のエンジンとなった製造業大企業では、この時期になってはじめて「日本的」雇用慣行が現実のものとして定着しはじめ、それとともに定年ないし定年近くまで一つの会社に継続勤務するという働き方が、大卒のホワイトカラーだけでなく中卒・高卒のブルーカラーにいたるまであまねく広がっていった。「サラリーマン」という造語が大流行語となって、「職員」や「職工」・「工員」という言葉が次第に聞かれなくなっていったのは、こうした時代の流れを象徴するものであったといってよい。従業員は、いまや全員が月給で働く「社員」となったのである。だが、そこにいたる道のりはなだらかな舗装路ではなかった。むしろそれは、多くの対立と抗争をくぐり抜けてようやくたどり着くことができる、でこぼこの砂利道であった。・・・}
2 「ホワイトカラーからブルーカラーへ」
{・・・ホワイトカラーの慣行や制度がブルーカラーに拡延されるプロセスは、同時に「ホワイトカラーのブルーカラー化」とも呼ぶべき局面を伴っていたということが見逃されてはならない。第3章で詳しく論じるように、戦時・占領期に「職員」と「職工」という一対の概念にかわって、「従業員」という単一の概念が現実のものとなったのは、実質賃金が極端に低下する状況下で「貧しさを共に分かち合う」ことによってであった。興味深いことに、日本のホワイトカラーは、その特権的地位の剥奪に対して少なくとも表面上は目立った組織的抵抗を示すことはなかった。それどころか、彼らのなかの「進歩的な分子」は、敗戦直後の混乱の最中にブルーカラー労働者をむしろりーどして工職混合の「従業員組合」を結成し、自ら特権を放棄する身分撤廃闘争を展開したのであった。欧米のホワイトカラーが、排他的な職能団体を結成してプロフェッションのステイタスを確立・維持することにいかに力を注いできたかを想起するならば、こうした日本の経験が国際比較の観点からみてきわめてユニークなものであることは明らかであろう。
高度成長後半期の1960年代には、以上にみたのとは文脈が異なる、文字通りの「ホワイトカラーのブルーカラー化」が進行した。大方の予想を裏切って2桁を超える高度成長が続くなか、労働力不足が急激に深刻化すると同時に高校進学率が驚異的な上昇トレンドを描いたことで、これまでホワイトカラーの下級職に採用されてきた新規高校卒業者がブルーカラーとして雇い入れられることになったからである。こうした中卒者から高卒者への学歴代替は、よく知られているように高卒者の期待と現実の処遇との間にミスマッチを引き起こし、これを一つの契機として大企業ではホワイト・ブルーを原理的に一本で扱う「職能資格制度」が普及した。「シングル・ステータス」と英語で表現される戦後日本の人事管理システムは、ここに制度的完成をみたのである。
しかし、それにもまして重要な事実は、中卒者から高卒者へのシフトが企業と学校のリンケージを制度的基盤とする、現代日本社会特有の新規学卒採用システムの確立をもたらしたことである。第2章で詳しく明らかにするように、このような新規学卒採用の「制度」は、最初「学卒」の上級職員を対象として始まったが、第一次大戦のブームとその後の長期不況を経て中・下級職員を含む、職員全般を対象とするシステムとして定着した。中卒から高卒への学歴代替は、すでに戦間期に大企業と高校の前身である中等学校(とくに実業学校)との間で確立していた「制度」が、ブルーカラーの就職=採用のそれとして転化して利用されるという、「意図せざる結果」をもたらしたといえる(第5章)。要するに、高卒者の「ブルーカラー化」は、戦間期のホワイトカラーの採用方式が従業員全般に一気に拡大される、画期となったのである。学校から職業への「間断のない移動」のシステムもまた、ここに完成をみたといえよう。・・・}
3 研究史の検討
4 本書の構成

第1章 歴史的前提 ―産業化と人材形成

はじめに

Ⅰ 大工場労働者と熟練形成
1 問題の設定
2 職歴の類型化
3 入社前の職歴と採用職種・賃金
4 配置転換
(1) 定員制下の要員管理
(2) 配転の実態
5 結論

Ⅱ 職員層の形成
1 問題の設定
2 分析対象
3 キャリアの2類型―技術者と事務職員
4 技術者のキャリア形成
5 事務職員のキャリア形成
6 結論

第2章 「制度化」の起源 ―戦間期の企業・学校とホワイトカラー市場

Ⅰ 新規学卒採用の「制度化」
1 問題の設定
2 分析対象のプロフィール
3 新規学卒採用の実態―誰が対象となったのか?
4 学校とのリンケージ
5 研究員制度と新卒採用方式の改革
6 停滞から「制度化」へ
(1) 外部採用と内部昇進
(2) 「技術と労務の融合」
(3) 「雇員ノ採用ニ関スル取扱内規」
(4) 新規学卒採用制度の定着
7 結論

Ⅱ 学校による就職斡旋とその論理
1 問題の設定
2 学校・企業と「知識階級」の就職―中央職業紹介事務局調査の検討
(1) 「知識階級就職に関する資料」
(2) マクロ・データの検討
(3) 学校の斡旋活動
3 学校と就職斡旋―鶴岡工業学校のケース
(1) 分析対象のプロフィール
(2) 就職動向と求人開拓
(3) 企業との往復文書にみる就職プロセス
(4) 就職企業と就職後の定着状況
4 結論

第3章 「日本的」企業システムの形成 ―戦争と占領下の構造変化

Ⅰ 「日本的」雇用関係の形成―就業規則・賃金・「従業員」
1 問題の設定
2 戦間期の雇用関係
(1) 社員の雇用関係
(2) 職工の雇用関係
(3) 「不当な差別」
3 戦時統制の理念と現実
(1) 新規則の制定
(2) 「経済新体制」と企業改革構想
(3) 賃金制度の改革
(4) 就業規則の規制
(5) 企業の「軍隊化」
4 「従業員組合」と身分撤廃闘争
(1) 「従業員組合」
(2) 日立工場労働組合の結成
(3) 労働攻勢
(4) 身分制度撤廃
(5) 収斂―1950年争議の後
5 結論
(1) 「日本的」雇用関係の連続と断絶
(2) 展望―「日本的雇用システム」の確立

Ⅱ 「企業民主化」―財界革新派の企業システム改革構想
1 問題の設定
2 戦間期の企業システム
(1) 身分制度と「労働組合不在の労使関係」
(2) 株主主権
(3) 企業批判
3 「経済新体制」と財界
(1) 「経済新体制」と企業システムの再設計
(2) 重要産業協議会の成立
(3) 『統制会の理論と実際』と『工業経済新論』
4 経済同友会の結成
(1) 財閥解体と財界追放
(2) 「中堅経済人」の結集
(3) 重産協と同友会
5 労働運動の高揚と生産管理闘争
6 労使協調の模索
(1) 経済同友会と労働問題
(2) 生産管理問題
(3) 「最近の労働争議に関する見解」
(4) 経済復興会議
(5) 経営権の確立
(6) 「企業民主化」論の展開
7 結論―「企業民主化」論の歴史的意義

第4章 「企業封鎖的」労働市場の実態 ―高度成長前夜の大工場労働者と労働市場
1 問題の設定
2 「京浜工業地帯調査(従業員個人調査)」
(1) 「労働市場の模型」と「大工場労働者の性格」
(2) 「従業員個人調査」の問題点
(3) 再分析の方針と本章の構成
3 壮年労働者の職業経歴―40~49歳層の分析
(1) 職歴の類型化
(2) 出身階層と入社経路
(3) 職種と熟練形成
(4) 昇進と月収
(5) 小括
4 戦後の採用管理と労働市場―1946年以後入社者の分析
(1) 戦後の採用管理
①職安・学校利用の増加
{・・・戦時期は、日本経済の計画化が図られるなかで、「労務の適正配置」を目的として国営の職業紹介機関の果たす役割が著しく肥大化した時期であった。よく知られているように、1938年には厚生省が新設されるとともに改正職業紹介法が公布され、それまで市町村営が中心だった職業紹介所はすべて国営化された。厚生行政のもとに一元化された国営職業紹介所は、その後戦時統制が本格的に展開するなかで労務動員計画の実施機関としての役割を担っていく。なかでも、労務動員計画で最大の供給源と位置づけられた新規小学校卒業者については、すべての求人を国営職業紹介所が把握し、小学校との緊密な連携のもとで求職者を一人残らず整然と斡旋するシステムが整えられていった。河棕文によれば、40年以降は「民間工場への就職方法として多く用いられた縁故関係は次第に弱化し、若年労働者を中心に職業紹介所による就職が増え」たが、こうした変化は中小工場よりも大工場で顕著であったという。
1947年11月に制定された職業安定法は、「職業選択の自由」の原則を高らかにうたいあげた一方、職安行政の使命は「産業に必要な労働力を充足し、以て職業の安定を図るとともに、経済の復興に寄与することにある」(第1条)と規定していた。そのためには、政府当局が「国民の労働力の需要供給の適正な調整を図ること」(第4条)が必要になる。そして、敗戦直後において、そうした全国的需給調整の対象となったのが新規学卒者、なかでも神政中学校の卒業生であり、また他ならぬ繊維、石炭、鉄鋼等の重要産業労働者であった。行政当局は、これらの「質的又は量的にみて重要な」労働者に限って、必要であれば所轄の都道府県が自由に求人の連絡を行うことができるとする、特別の措置を定めていたのである。・・・}
②臨時工の採用
③養成工制度
(2) 職種別労働市場の分析
①採用地と採用方式
②採用者のキャリアと年齢
(3) 小括
5 結論
{・・・ところが、1950年代以降高度成長が本格的に展開すると、大工場労働者をとりまく環境は大きく変化し、キャリア・パターンの画一化・標準化が職種の違いを超えて急速に進行していった。ジェームズ・アベグレンが『日本の経営』を出版して、「終身雇用」(“permanent employment system”)という言葉をあまねく世に広めたのは1958年のことだったが、ゴードンが指摘するように、この本の出版のタイミングはまさに「日本的雇用システム」が日本の大工場に普及しはじめた時期に重なっていたといえる。ゴードンによれば、ブルーカラー労働者がホワイトカラーとひとしなみに企業の正規の構成員として位置づけられ、かなりの程度の雇用保障、勤続年数と比例して上昇する賃金、そして幅広い企業内福祉を享受できるようになるのは、非妥協的な労使対立の時代をくぐり抜けた50年代後半以後のことであった。
それだけではない。毎年、桜の花の咲くころに、全国津々浦々の学校を卒業した若者が、一斉に職業の世界へと入っていく。こうした学校から職業への「間断のない移動」は、他の国ではあまりみることができない。日本社会の大きな特徴であるといわれてきた。だが、このような慣行が大卒者のみならず、ノン・エリートの一般大衆にまで広まったのは、まさに1950年代以降、大量の若者が農村から都市へとなだれを打って移動して行く、そうした歴史的な構造変動の最中においてであった。1955年から64年までの10年間で、新たに労働市場に入った新規中卒者の数はのべおよそ600万人、年平均60万人のマスに上る(農林水産業就職者を除く)。そのうち、県外への就職者は60年代には全国平均で3割から4割に達し、岩手県などの「農業県」では優に5割を超えていた。これほど大量の若者が、毎年決まった時期に一斉に就職するということが可能となったのは、全国的なネットワークをもつ職業安定行政の諸機関が、中学校と緊密な連携を保ちながら、全国一律の綿密なスケジュールのもとで卒業者のジョッブ・マッチングを計画的に進めたからである。・・・}

第5章 「間断のない移動」のシステム ―戦後新規学卒市場の制度化過程

Ⅰ 中卒就職の制度化―職業安定行政の展開と広域紹介
1 問題の設定
2 国営前の少年職業紹介と広域紹介
3 「統制」から「調整」へ―戦時から戦後への流れ
(1) 戦時計画経済と新規学卒市場の統制
(2) 職業安定行政の「民主化」と広域紹介
4 新規中卒者の職業紹介―発展のプロセス
5 1950年代の需給調整―鹿児島県のケース
6 労働力不足経済への転換と「強力な需給調整」
(1) 「新規学校卒業者(中学)需給調整要領」
(2) 年間計画
(3) 求人指導
(4) 全国需給調整会議
7 結論―「強力な需給調整」の意義とその行方

Ⅱ 中卒から高卒へ―定期採用システムの確立
1 問題の設定
{学校を卒業して直ちに就職する、あるいは新規学卒者を一斉に4月1日付で一括採用する。国際的には異例ともいえるこのような慣行が、大卒ホワイトカラーのみならず中卒・高卒の大衆労働者にまで広がり、日本社会の「常識」となったのはそれほど古いことではない。それは、高度成長期以降、学校と協力・連携した職業安定機関が展開した新規学卒者紹介事業をきっかけとして創出された、新しい「制度」に他ならない。未だ在学中の生徒を対象として就職を斡旋するこの試みは、客観的にみれば学校から職業への「間断のない移動」を作り出し、定期採用の慣行の定着を促すものであったといえる。しかも、1950~60年代の日本は、市場経済の下で前例がないほど急激な雇用構造の変動と被雇用者数の増加を経験した。前節で指摘したように、こうした戦後日本社会の構造変化のスムーズな進行は、それ自体新規学卒労働力の流れを「調整」した職業安定所の活動に支えられていたとみることができる。・・・}
2 マクロ分析
(1) 中卒者から高卒者へ
(2) 職業紹介
3 中卒者の職業紹介
(1) 史料―『手引』と通達
(2) 求人指導
(3) 職業指導
(4) 学校との役割分担
(5) 定着指導
(6) 少年職業紹介と不良少年問題
4 高卒者の職業紹介
(1) 学校による就職斡旋と職業安定法の改正
(2) 職業安定行政と高校
(3) 職安行政の挫折とその帰結
(4) 新規高卒市場のパフォーマンス
5 定期採用の形成
(1) 定期採用率の推移
(2) 養成工と臨時工
(3) 高卒労働力への切替え
(4) 新規高卒者のリクルート
6 結論

終章

1 現代日本社会の形成
(1) 「間断のない移動」の制度化
{学校を卒業すると同時に就職する、そして、同一企業で定年ないし定年近くまで継続勤務する。序章でみたように、第二次大戦後の日本では、そうした国際的には異例ともいえる働き方・生き方が、高度成長をリードした大企業セクターの男子労働者を中心に、中卒・高卒と大卒という学歴の違いや、ホワイトカラーとブルーカラーという職能の違いをこえて広まり、むしろこれこそが会社員として「標準」的な職業経歴であるとする常識が形成されていった。そのような「常識」からすれば、就職とは、学校を卒業するまさにその時点において、ある特定の会社に「就く」ことを決める、一回限りの選択に他ならない。戦後の構造変動を経て誕生した現代日本社会は、こうしたものの見方・考え方が一般化しているという意味で、「就社」社会と呼ばれるにふさわしいといえる。これまで、伝統的な経済学の理論では、人と仕事のマッチングは、求人者と求職者個人が自由な労働市場で出会うことを通して行われると考えられてきた。しかし、今日、私たちが「当たり前のこと」とみなしている社会の現実(reality)は、こうした「市場」を中心に資源の最適配分が行われるとする、新古典派的な理論が想定する世界とはあまりにもかけ離れているといえよう。
戦後日本で上のような事態が起こったのは、人びとの職業への配分が、市場の「見えざる手」によって導かれるというよりは、むしろ経済的・社会的な摩擦を極小化するという観点に立って、人為的に作り出された「制度」の大幅な介入のもとで進められたからである。1950年代から60年代にかけて、日本社会は、ときに「民族大移動」とも表現される、農村から都市へと向かう激しい労働人口の移動を経験した。このような状況下で、日本政府は、新規学卒者―わけても、戦後新しく義務教育となった新制中学校の卒業者―の供給が労働市場のうちに占める重要な意義に注目し、職業安定行政の諸機構が全国の中学校と連携して計画的なジョッブ・マッチングを進める、未曾有の職業紹介事業を展開した。この時期、職安・学校の紹介で就職先を見つけた者は、中卒就職者全体の7割にも上る。就職地別にみると、県外就職者では県内就職者に比べて職安・学校紹介によった者の割合が顕著に高く、中卒労働力の地域間移動に職安行政が大きな役割を果たしていたことがわかる。・・・}
{・・・職安行政の「黄金時代」は長くは続かなかった。1960年代に入ると、高校進学率が上昇したために中卒就職者数自体が減少し、学歴代替が進行したが、大衆労働力の新たな主役となった高卒者については、職安は企業からの求人をうまく把捉することができなかったからである。結局、職安は、求人の内容が法令に照らして問題のないことをチェックして、求人票に確認印を押すという、中卒者の場合と比べればあまりにも控えめな役割を引き受けるだけで、事実上高卒者の職業紹介から手を引くことになった。しかし、このことは、高卒者のジョッブ・マッチングが自由な「市場」の働きに委ねられたことを意味しない。職安が静かに退場していくなかで、新規高卒者への求人を一手に引き受けたのは高校であり、高校は企業との直接の結びつきを基盤に、教育活動の一環として卒業生への就職斡旋を組織的に行う体制を整備していった。他方、企業の側もまた、ブルーカラー労働者の主力を中卒から高卒へ切り替えるのと同時に、臨時工の随時採用に重点を置いてきた従来のやり方を改め、新規学卒者の定期採用を採用管理の中心にすえる新しい方針を打ち出した。企業は、労働力の選抜を事実上学校に委任することで、取引コストの節約を図っていったといえる。要するに、行政の退場がもたらしたものは、自由な労働市場の形成ではなく、「制度」のさらなる進化だったのである。}
(2) 「日本的」雇用関係の形成
{・・・戦前の日本企業の人事管理が、職工員の身分制度を前提として組み立てられていたことは、よく知られている。そこでは、採用、昇給・昇進、解雇という企業内のキャリア形成に関わるすべての局面にわたって、ホワイトカラーとブルーカラー労働者では原理的にまったく異なる処遇が行われていた。第3章でみたように、日立製作所のケースでは、職員のキャリアの組織への内部化が図られたのとは対照的に、職工の雇用管理の基本は事業の繁閑に応じて随時労働者を臨時工として雇い入れ、不況時には速やかな雇用調整を行うというものであった。日本の工場では、イギリスでみられた職種別の標準賃率という考え方はまったく存在せず、すべての職工に下級職員と同じく日給が定められ、年に2回の査定にもとづく昇給が行われた。しかし、職工の場合、昇給対象人員は一部に限定され、査定の基準も曖昧で、日給は必ずしも勤続年数に比例して上昇しなかった。むしろ、賃金水準はゆるやかに技能に対応していたと推定される。・・・
ところが、敗戦後にGHQが労働組合の結成を奨励する方針を明らかにすると、労働者の組織化が爆発的な勢いで進み、上にみたような職員と工員の二元的人事管理のあり方を根底から覆していった。戦後日本の労働組合は、企業体を単位に工員・職員をともに組織した、工職混合の企業別組合であったところに大きな特色がある。日立では、まず工場を単位として組織化が進められたが、工場労組の連合体である日立製作所労働組合総連合(総連合)が結成されると、労使の力関係は一気に労働者側へと傾いた。1946年6月に初めての労働協約が締結されたが、この協約は組合側にきわめて有利で、企業経営に対する最大限の発言権を認めたものであった。とくに注目されるのは、会社の人事権が採用、解雇、登用、異動、賞罰のすべてにわたって強い規制を受けたことである。総連合は、協約によって設立された経営協議会を足場に会社側にさまざまな「民主化」要求を突きつけ、これらを力によって勝ち取っていった。47年1月には、身分制度の撤廃が実現し、従業員は新たにすべて「所員」となった。さらに同年5月には、生活給の考え方に立つ新給与制度が制定されて、全所員に一律に適用された。
燃えさかる労働攻勢に冷水を浴びせかけたのは、労働組合、とくに共産党系の組合に対するGHQのスタンスの変化であった。マッカーサーの命令にもとづく2・1ゼネストの中止は、労働運動の大きな曲がり角になった。さらに、冷戦の時代が始まるとともに、占領政策の目的は非軍事化から経済復興へと大きく転換し、民主化政策にも歯止めがかけられるようになった。こうしたなかで、1948年4月に日本経営者団体連盟(日経連)が結成され、経営権、わけても人事権の回復を目指して活発な活動を展開した。49年に入ると、ドッジ・ラインが実施されて企業への補給金が打ち切られ、これを機に「企業整備」=大量解雇が実施された。日立でも、人員整理と労働協約改定を争点とする大争議が起こったが、結局この争議では組合側が惨敗宣言を行って、経営権の回復が図られた。
しかし、このことは、戦前の二元的人事管理への回帰がなされたことを意味しない。戦後民主化の最大の成果である身分撤廃は、その後の経営側の巻き返しによっても後退せず、むしろ日本企業の人事慣行のなかに深く根をおろしていった。1970年代初頭、ロナルド・ムーアは日立とイングリッシュ・エレクトリック社の精緻な比較研究をもとに、雇用システムにおける日英の違いについて次のように書き記した。
「日本のシステムとイギリスのシステムの違いは、イギリスならミドル・クラスの職員に限られている特権―年金や疾病手当のような付加給付、かなりの程度の雇用保障、家族生計費の増加に見合う所得の上昇など―が、日本では現場労働者にまで適用されていることにある。そうした特権は、イギリスでは筋肉労働に従事する者に対して、ほぼ完全に拒否されているものである。」
このドーアの研究は、大争議後の日立で、「職員」と「工員」をひとしなみに「所員」と把握する人事管理方式(single status)が確立し、「終身雇用」や「年功賃金」のルールがすべての従業員―事実上は、男子正社員―に一律に適用されるに至ったことを、見事に実証しているといえよう。
1950年代には、企業経営の合理化・近代化が進められるなかで大規模な労働争議が頻発したが、その多くは組合側の敗北に終わった。激しい抗争の過程では、しばしば職制層を中心に第二組合が結成され、「職場闘争」の方針を掲げた第一組合の組織の瓦解をもたらした。しかし、このことは、日本の労働組合が御用組合と化したことを意味しない。新たに主導権を確立した「協調的」労働組合は、合理化への協力を前提に事前協議のシステムを作り上げ、職場における発言権を確保する一方、寡占企業間の競争を利用して産業別の統一行動=春闘を組織し、合理化による成果配分を享受しうる体制を整えていった。「柔軟な生産システム」の構築は、このような労働運動の転換によってはじめて可能になったといえよう。その意味で、「協調的」労使関係の形成は、ミクロな次元で企業の競争力強化に貢献すると同時に、労働者の所得の上昇を通じて持続的経済成長のマクロ的基盤を整備したと、評価することができる。}
2 「日本的」制度の特質と歴史的背景
(1) 「日本的」制度の普遍性と特質
(2) 「日本的」制度の歴史的背景
①クラフト・ユニオンの伝統の欠如
②ホワイトカラーの形成と「教育」という社会的資源
③「教育」の論理と「間断のない移動」
④日本経済の計画化と中卒就職の制度化
⑤「企業民主化」と「有機的組織体」としての企業
3 結び



あとがき
図表一覧
索引

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September 29, 2018

佐藤卓己「増補 八月十五日の神話」

図書館で借りました。

書名:増補 八月十五日の神話
著者:佐藤卓己
出版:ちくま学芸文庫(2014年12月第1刷)


《目次》

凡例

序章 メディアが創った「終戦」の記憶

1 「八一五字の八・一五詔書」
//4分37秒と4分33秒/「皆様御起立を願います」/「玉音写真」の最高傑作/敗者に映像はない/玉音拝聴をカメラはどうとらえたか?/
2 セピア色の記憶―『北海道新聞』の玉音写真//沈潜する少国民の記憶/「セピア色の記憶」の嘘/ポーズをとらされた少年たち/
3 八月一五日の九州飛行機工場
//九州飛行機と近海防衛の切り札「東海」/元動員学徒たちの証言/兜町の独眼流/『西日本新聞』の祈念写真/メディア研究者の失敗/戦意高揚のプロパガンダ写真?/
4 「玉音写真」がつむぎだす物語
//教科書の「終戦」写真/断片的な写真が伝える全体的な物語/戦後にむけたプロパガンダ写真/『朝日新聞』八月一五日の「予定稿」?/八月一四日に撮影された玉音写真?/

第一章 降伏記念日から終戦記念日へ―「断絶」を演出する新聞報道

1 「終戦」とは何か
//1963年の閣議決定/八月一〇日の終戦?/八・一四と八・一五のあいだ/「返報の日」VJデイ/終戦のグローバル・スタンダード/「八・一五終戦」説への疑義/八・一六を強調した江藤淳/
{・・・この終戦に至る歴史的経過を、メディアとの関係で簡単に整理すれば次のようにまとめられる。
八月九日から一〇日未明に行われた御前会議で、本土決戦論を唱える陸相と陸海軍両総長の要求を退け、天皇はポツダム宣言受諾の「聖断」を行った。つまり、「共同宣言にあげられた条約中には、天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざるとの了解の下に、帝国政府は右宣言を受諾す」、と決定された。この決定は直ちに公式通告として、一〇日午前六時45分スイスの加瀬俊一公使およびスウェーデンの岡本李正公使に発信された。手渡し先は中立国のスイス政府とスウェーデン政府だが、それぞれ電文のあて先はアメリカ、中国と英国、ソ連であった。これとは別に、松本利一外務次官の指示により、一〇日午後八時過ぎ、同盟通信社のモールス信号と日本放送協会の海外放送がポツダム宣言受諾の全文を海外向けに発信した。『バーゼル新報』号外はこれを速報したものである。
ハリー・S・トルーマン米大統領も、スイス経由の公式電より早く東部時間一〇日午前七時33分(日本時間同午後八時33分)、「トウキョウ・ラジオ」の発表について報告を受けた。この時点で、世界各地で「勝利万歳」の歓声があがっていた。出先の日本軍もこの海外放送を傍受しており、南部仏印ダラットの南方軍総司令部からも「怪放送」受信につき大本営に照会があった。
同一〇日夜、サンフランシスコ(及びハワイ)の日本向け短波放送は、「ポツダム宣言受諾の用意成れり」との日本政府の申し入れがスイス政府を通じてあったと、ニュースで繰り返し放送しはじめた。日系二世風のアクセントで「日本の皆さま、こちらは『アメリカの声』であります」と始まるこの短波放送は、日本各地の通信隊、短波受信機をもつ陸海軍部隊でも傍受されていた。
同一二日午前〇時45分、日本側の受諾通告に対する連合国の回答がサンフランシスコよりラジオ放送された。この内容は天皇の地位に言及せず、「最終的な日本国の政府の形態」は、ポツダム宣言に従い日本国民の自由に表明する意思により決定せらるべきものとしていた。この回答の解釈、再照会の是非をめぐって閣議、最高戦争指導会議は対立し、正式回答の電報でないとして最終的な受諾決定は延期された。
一方、一三日午後九時34分(東部時間)、アメリカのUP通信社は「日本から降伏申し入れ正式受諾」の速報を流した。間違いに気づいて二分後に取消したが、「終戦ニュース」に全米が湧きかえっていた。UP電は各連合国に転送され、カナダでは事前に録音されていたマッケンジー・キング首相の戦勝祝賀メッセージが全国にラジオ放送され、オーストラリアでもジョゼフ・ベネディクト・チフリー首相がこの日(現地時間で一三日)を祝日とする声明を発し、後に訂正した。
他方、東京上空では同一三日夕方、米軍機が日本政府のポツダム宣言受諾を印刷したビラを散布し、国民への情報統制はほころびはじめていた。}
{同一四日午前10時50分、天皇は最高戦争指導会議と閣議の連合会議を招集し、再び「聖断」によってポツダム宣言受諾が確定され、午後8時天皇は終戦の詔書に署名した。各国務大臣が副署を終えて詔書が渙発されたのは一四日午後11時である。ほぼ同時に外務省から連合国への回答公電が一〇日同様、スイスとスウェーデンに向けて発信された。加瀬公使がスイス外務省で受諾文を手交したのは、一四日午後8時5分(スイス時間)、その一報がホワイトハウスのトルーマン大統領執務室に届いたのは一四日午後4時5分(東部時間)であった。ジェームズ・F・バーンズ国務長官はイギリス、ソ連、中国の政府首脳に電話をかけ、一四日午後7時(日本時間一五日午前8時)に四カ国が戦争終結について同時発表することを申し入れた。同7時、トルーマン大統領はラジオのマイクとニュース映画のカメラの前で、日本の降伏を発表した。日本政府の公式受諾文の朗読を含めて約2分の短い内容である。
「私はこの回答を、無条件降伏を明記しているポツダム宣言の日本による全面的受諾、と見なすものであります。回答の中に条件はありません。日本の降伏を受諾する連合国最高司令官には、マッカーサー将軍が任命され、英国、ソ連、中国の高級将校が列席します。連合国軍には、攻撃を停止するよう命令が下されました。対日戦勝記念日(V・Jデー)の布告は、日本が降伏文書に正式に署名するまで待たねばなりません。」
翌一五日正午、天皇が朗読した終戦の詔書の録音がラジオで放送された。新聞に掲載されたこの詔書の日付も、八月一四日である。終戦の詔書という文書を根拠とするならば、終戦記念日は一四日にならねばならない。・・・}
2 勝者と敗者の終戦記念日
//戦勝記念日を九月三日とした旧ソ連/「八・一五終戦」が急浮上した中国/フランスとイギリスの場合/イタリアの奇妙な「終戦」/二つのドイツと二つの終戦記念日/ドイツ人の「八・一五終戦記念日」批判/
{・・・奇妙なことに、戦後占領体制などで日本はドイツよりもイタリアに酷似しているのだが、日本でイタリアの終戦について言及されることはほとんどない。戦後にイタリアで王政が廃止されたこともあり、「国体護持」との関係から言及が避けられたと考えるのは穿ち過ぎだろうか。
第二次世界大戦はドイツ軍のポーランド侵攻により、1939年9月1日に始まった。翌2日に中立を宣言したイタリアは、ドイツ軍のパリ入場の4日前、1940年6月10日イギリス・フランスに宣戦布告した。しかし、イタリア軍はアフリカ戦線ほか各地で敗退し、1943年7月25日クーデターによりムッソリーニ首相は失脚した。国王エマヌエーレ三世は後任首相にバドリオ元帥を任命し、同政府は9月3日シシリー島で連合国と秘密休戦協定に調印し、同8日、その発行と無条件降伏を公表した。常識的には、この9月8日が「敗戦記念日」のはずだが、イタリアではそう考えられてはいない。戦争がなおも続いたためである。
翌9日、ドイツ軍は北部イタリアを占領し、バドリオ政府はローマからアメリカ軍占領下の南イタリアに逃亡した。9月15日、救出されたムッソリーニを首相とするファシスト共和政府がドイツ軍保護下に成立した。10月13日、バドリオ政府はドイツに対して宣戦布告して連合国側に参加、さらに1945年7月14日には日本に対しても宣戦を布告している。ムッソリーニはその三カ月前、4月28日コモ湖畔でパルチザンにより射殺されていた。現在のイタリアの祝祭日「解放記念日」Liberazioneは、ムッソリーニ射殺の三日前、CNL(国民解放委員会)のパルチザン部隊がドイツ軍防衛線を突破し、イタリア北部をドイツ軍とファシストから解放した4月25日である。
以上の経緯から見ると、「敗戦国」の自覚を欠くイタリア国民が特段の「終戦」記念日を設定しないこともりかいできよう。イタリアの歴史教科書はヨーロッパでの「終戦」をドイツ降伏の5月7日、第二次世界大戦の終わりをミズーリ号調印式の9月2日と記述している。
なお、戦後日本の天皇制論議に影響を与えたはずである、サヴォイア家イタリア王国の終焉について、簡単にまとめておきたい。ファシスト体制支持と対英米開戦の責任をとって、1946年5月9日エマヌエーレ三世は退位し、皇太子がウンベルト二世として即位した。ウンベルト二世は、イタリア王室とムッソリーニの独裁政治との関係を繰り返し否定した。しかし、1946年6月2日に戦後の国家体制をめぐって行われた国民投票で、カトリック教会が中立を宣言したため、僅差で王制は廃止された。この6月2日は現在、「共和国祭」 Festa della Repubblica として祝日になっている。共和制移行後の元国王は主にポルトガルで亡命生活を送り、再入国することなく生涯を終えた。6月2日には、共和国大統領が閲兵する軍隊パレードと空軍ショーがあり、月桂樹の輪を祖国祭壇 Altare della Patria の無名戦士墓などに献呈している。・・・}
3 創られる記憶
//1945年当時の新聞報道/サンフランシスコ講和会議と「降伏記念日」の消滅/「八・一五終戦」企画の始まり/1955年という記憶の転換点/「もはや戦後ではない」、だから終戦記念日を/
4 「玉音の記憶」に根差す戦没者追悼式
//「戦没者を追悼し平和を祈念する日」の誕生/「悪評もないよりまし」/「文書の敗戦」から「電波の終戦」へ/

第二章 玉音放送の古層―戦前と戦後をつなぐ

1 聖霊月と「八月ジャーナリズム」
//終戦か、敗戦か、八・一五革命か/玉音神話とラジオ/
2 玉音放送のオーディエンス
//徳川夢声の八・一五日記/それぞれの八・一五日記/「玉音体験」の大衆化/「戦前の弔辞」か、「戦後の祝詞」か/天皇と日和見/
{・・・玉音の「4分37秒」に気を奪われて、それに続く32分53秒の解説を忘れてはならない。和田放送員による内閣告諭、聖断経緯、交換外交文書の要旨、受諾通告の経過、平和再建の証書渙発などの朗読はほとんどの国民に「理解」できたはずである。ここに、玉音というメディアの象徴的機能を読み取ることができる。多くの人にとって「内容=意味」の理解は二の次であり、何よりも共感できる「形式=音声」こそが重要であった。玉音放送研究の決定版ともいうべき竹山昭子『玉音放送』(1989年)は、この放送の祭儀的性格を次のように総括している。
「「玉音放送」という番組は、降伏の告知という役割だけでなく、降伏決定の儀式を送り手と受け手で行なった番組であり、各家庭、各職場に儀式空間をもたらした番組であったといっていいだろう」
単なる「降伏の告知」ではなく、「儀式への参加」であったことが重要である。この場合、昭和天皇が行使したのは、国家元首としての統治権でも大元帥の統帥権でもなく、古来から続いた祭祀王としての祭祀大権であった。・・・}
3 お盆ラジオの持続低音―甲子園野球と「戦没英霊盂蘭盆会法要」
//お盆の政治学/甲子園は夏のニュース製造機/「魂まつり」としての甲子園野球大会/新民謡とラジオ体操―盆踊り番組揺籃期/「東京音頭」の全国化―「盂蘭盆会法要」中継確立期/「九段の母」のお念仏―「戦没英霊盂蘭盆会法要」期/
{・・・そもそも、夏の甲子園野球大会(戦前の正式名称は全国中等学校優勝野球大会、現在の全国高等学校野球大会)は、1915(大正四)年、大阪朝日新聞社主催で開始された。夏休みの「記事枯渇」に対応して記事を量産するために企画されたメディア・イベントである。・・・自ら主催し、呼び寄せ、取材し、そして批評する。記事はいくらでお生み出すことができる。甲子園大会はそうした夏のニュース製造機であった。・・・}
{・・・たとえば、なぜ他のスポーツと異なり高校球児だけがいまだに「坊主頭」であるのか。なぜ、女子マネージャーを排する試合中の「女人禁制」が頑なに守られていたのか。・・・}
{・・・戦前の試合からのファンである作田啓一は、「高校野球の社会学」(1964年)で戦後の高校野球を国民的宗教儀礼と断じている。
「郷土や母校や後援会の期待をになって甲子園に出場する選手たちはもはや「個人」ではない。彼らは集団の繁栄を儀礼的に演出する司祭である。(略)戦争は日本の国家の運命をかけているから、明らかに宗教的なものである。代表意識にかり立てられて、日本を代表する責任を負わなくてもいい人までが死んでいった。それからまた、策戦がリチュアリスチック〔儀式的〕で、古い突撃の型を固守し、犠牲を少なくすることに配慮しなかったために、むだな血がおびただしく流れた」
つまり、内野ゴロでも一塁にヘッドスライディングをする高校野球の敢闘精神と旧日本軍の玉砕攻撃は同じ集団儀礼と理解できるのである。もちろん、先の戦争で戦地に赴いて散華(さんげ)した球児も多いが、各県代表という方式は県単位で行われた徴兵による師団編成や一県一社の護国神社(1939年招魂社から改名)と相似である。開会式の入場行進を「学生野球の父」飛田穂州(すいしゅう)は「日本魂の行列」と書いているが、確かに学徒出陣を彷彿とさせる。開会行進の先頭は日章旗であり、優勝旗の生地は「天皇期」と同じ皇国織(綾錦織り)でつくられていた。年功序列、大声の挨拶、厳しい合宿生活は、軍隊内務班の生活にも酷似している。さらに、当の野球部員の事件ならともかくも、同じ学校の生徒の不祥事により連帯責任で出場辞退が強要されることなど、極度に「不浄」が忌まれることも、甲子園の「球宴」とお盆の「み魂まつり」の連想を容易にする。早稲田大学野球部監督から朝日新聞社に入社して学生野球の戦評に健筆をふるった飛田穂州は「一球入魂」をモットーとしており、甲子園大会のことを「魂の野球」と呼んでいた。
現在も八月一五日正午、プレーを中断してでもサイレンの音と共に一分間の黙祷が行われている。今日の日本で、この黙祷の存在を知っている国民の圧倒的多数は、同じ時間帯に中継されている天皇隣席の政府主催全国戦没者慰霊式典ではなく、甲子園野球大会の視聴者である。すでに触れたように甲子園大会での慰霊に対する黙祷は、日中戦争勃発後の1938年大会から始まっている。
戦後最初の第28回大会「魂の野球」(飛田穂州)は、1946年、西宮球場で復活する。開会式は戦前恒例の「迎え盆」八月一三日ではなく、八月一五日に移動された。『朝日新聞』は「平和への賛歌」「若く新しき祖国の賛歌」と報じているが、「八・一五終戦記念日」が意識されていたかどうかは紙面では確認できない。「第28回」という大会回数が戦前から引き継がれたように、玉音放送の前後で、大会規定などもほとんど変化しなかった。・・・}
4 玉音神話と「全国戦没者追悼式」
/占領軍検閲と慰霊中継の自粛―「ラジオ・コード」期/「戦後の終わり」の始まり―「八・一五」編成の完成/ポスト・ラジオ時代の国民儀礼―全国戦没者追悼式/「ラジオ時代」、そして「ヤルタ=ポツダム体制」の終わり/

第三章 自明な記憶から曖昧な歴史へ―歴史教科書のメディア学

1 教科書は戦争観にどれほど影響するか
/戦争観を問うたNHKの世論調査/戦争についての認識と心情のあいだ/
2 国定教科書の混乱と検定教科書の成立
/国定歴史教科書のイデオロギー対立/国定教科書の「終戦」記述/検定教科書での「終戦」記述を分析する/検定における「終戦記述」の焦点/「一五年戦争」から「アジア・太平洋戦争」へ/小学校教科書における「五五年体制」/「終戦記述」の変遷―小学校の場合/アジア近隣諸国の「国定」教科書/「独立」なのか、「勝利」なのか―韓国の国定教科書/「九・三」から「八・一五」へ―中国の場合/タイの国定教科書/
3 「終戦」記述の再編―1955年-1962年
//歴史における体験の優位/
4 記憶と歴史の対峙―1963年-1981年
//家永三郎『新日本史』と教科書裁判/「八・一五玉音放送」を忌避した『新日本史』/
5 歴史化=政治化する記憶―1982年以降
/終戦記念日制定から二カ月間の歴史教科書問題/「新しい歴史教科書」の新しさとは/歴史教科書論争のメディア論/終戦記念日をめぐる保守派のジレンマ/現行歴史教科書の問題点/日本史と世界史のねじれ現象/記憶の歴史化/
{・・・教科書論争そのものはメディア論として大変興味深い。たとえば、『新しい歴史教科書』は、活字的権威に対する「語り口」の叛乱という性格を強く帯びている。
それは、『新しい歴史教科書』運動の中核に、司馬遼太郎の「語り口」を史観として評価する「自由主義史観研究会」が存在したことからも明白である。自由主義史観は東大教育学部教授・藤原信勝の提唱する「教室ディベート」実践から生まれた。ディベート(討論)とは、一つの論題に対して肯定側と否定側にわかれ、説得性を競うテクニックである。歴史教育へのディベート術の導入は、教科書記述の権威を相対化させるはずである。だとすれば、「教室ディベート」運動から「新しい歴史教科書をつくる会」が生まれたことは、皮肉といえばそういえなくもない。
同じことは、「つくる会」支持者が愛読する小林よしのり『戦争論』(1998年)などの漫画についてもいえよう。漫画の描写力は、教科書記述の限界を批判することでは絶大な威力を発揮する。テクストの権威を粉砕する漫画家が『新しい歴史教科書』執筆の中心にいるという状況は、この運動が伝統的な文書中心の実証史学に対する大衆的な「語り口」の異議申し立てであることを示している。・・・}

おわりにかえて―戦後世代の「終戦記念日」を!

//「虚妄」に賭けた丸山眞男/「八・一五の心理」と「九・二の論理」/

あとがき

巻末表
引用文献


補論1 「八月十五日」の民意

1 八月一五日に終わった戦争?
2 必要とされた国民的記憶
3 世論調査における「平和の日」と「追悼の日」
{・・・1869年に東京招魂社として創建された靖国神社は、1879年別格官幣社靖国神社となり、戦後は1946年2月1日より宗教法人靖国神社となって今日に至っている。その間、例大祭日は何度か変遷している。創建当時の例祭日は、1月3日(鳥羽・伏見の戦い勃発)、5月15日(上野彰義隊壊滅)、5月18日(函館五稜郭降伏)、9月23日(会津藩降伏の翌日)であった。1873年の改暦によって例大祭日も太陽暦になり、特に会津藩降伏の11月6日が勅使参向日として重視された。こうした幕末維新の記憶が、ようやく歴史となった1912年12月3日、靖国神社の例大祭日は春秋二回に改正された。1906年日露戦争の陸軍凱旋観兵式が催された4月30日と海軍の凱旋観艦式が催された10月23日である。幕末維新から日露戦争へと招魂すべき戦没者の比重が変わったためだろう。・・・}

補論2 「八・一五革命」再考

1 丸山眞男の八・一五革命
2 左翼と右翼の八・一五動員
3 『世界』の八・一五特集

補論3 「九月ジャーナリズム」を提唱する

1 戦後五十周年、戦後六十周年、戦後七十周年……
2 終戦記念日の東アジア外交
3 九月ジャーナリズムの創出

ちくま学芸文庫版あとがき

人名索引

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September 27, 2018

横山源之助「日本の下層社会」

この本も1980年頃の購入ですな。

書名:日本の下層社会
著者:横山源之助
出版:岩波文庫(1949年5月)、原著は1898年


《目次》

序 (島田三郎・日野資秀)
例言

【第一編 東京の貧民状態】

第一 都会の半面
第二 三貧窟の戸数人口及特質
第三 日稼人足
第四 人力車夫
第五 くづひろひ
第六 芸人社会
第七 一日の生計費用
第八 貧民の内職
第九 貧民と飲食
第十 貧民と屋賃
第十一 融通機関
第十二 貧民の家庭
第十三 貧民と教育
第十四 木賃宿
 北陸の慈善家・大阪の慈善家

【第二編 職人社会】

第一 東京府下の小工業
第二 居職人と出職人
第三 問屋との関係
第四 得意場との関係
第五 同業者の関係
第六 親分と徒弟
第七 全国職人の平均賃金
 出門第一日

【第三編 手工業の現状】

第一章 桐生足利の織物工場

第一 織物業の発達
第二 桐生足利地方の工女
(1) 食物及労働時間
(2) 契約年限及給料
(3) 工女の郷貫及世話人
(4) 傭主との関係
(5) 工女の風俗
第三 機業地の労働者
(1) 一日の賃銀
(2) 賃業者の生活
(3) 別途の収入
(4) 賃業者取締規則
第四 元機屋及下機屋
第五 買継商と粗製濫造
 福井地方の織物工場

第二章 阪神地方の燐寸工場

第一 燐寸事業の現状
第二 兵庫と大阪
第三 燐寸工場の分類
第四 燐寸工場と貧民部落
第五 燐寸工場の職工

第三章 生絲社会の趨勢

第一 生絲業の発達
第二 全国製絲工場の概況
第三 製絲工女の状態
 正月楽しき乎

【第四編 機械工場の労働者】

第一章 綿絲紡績工場
第一 綿絲紡績業の発達
第二 紡績工場組織一斑
第三 職工の年齢
第四 労働時間、休憩時間及休日
第五 賃銀
第六 賞与の種類
第七 寄宿舎の概況
第八 紡績工女の風俗、情態
第九 職工教育
第十 職工貯金
第十一 職工募集
第十二 契約労働
第二章 鐵工場
第一 男工と女工
第二 鐵工業の発達
第三 鐵工場の分類
第四 賃銀
第五 生活統計
第六 監督者
第七 見習職工
第八 救済方法
 田舎の風尚

【第五編 小作人生活事情】

第一 一反歩の潤益
第二 小作人の類別
第三 旧幕時代の小作人
第四 旧幕時代と今日
第五 農家の内職
第六 一ヶ年の所得
第七 出稼、移住
第八 下男、下女
第九 地方の下女払底
本邦現時の小作制度に就て

【附録】
日本の社会運動

第一章 緒言

第二章 過去の社会運動

第一節 維新の革命

第二節 自由党の勃興

第三節 新貴族の発生、帝国議会の開会

第三章 現時の社会運動

第一節 日清戦争と労働社会
 第一款 同盟罷工の続出
 第二款 労働組合の成立

第二節 貧民問題の勃興
 第一款 融通機関の設備
 第二款 貧民学校を起すべし

第四章 社会問題の前途


『日本の下層社会』の巻末に(豊原又男・植松考昭)
跋(中村修一)

解題(風早八十二)

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September 17, 2018

森岡孝二「雇用身分社会」

これはどこで買ったか思い出せませんが、もしかして閉鎖したイトーヨーカドーに入っていた熊沢書店かも。

書名:雇用身分社会
著者:森岡孝二
出版:岩波新書(2015年10月第1刷)


《目次》

序章 気がつけば日本は雇用身分社会

/派遣は社員食堂を利用できない?/パートでも過労とストレスが広がる/使い潰されるブラック企業の若者たち/現代日本を雇用身分社会から観察する/全体の構成と各章の概要/

第1章 戦前の雇用身分制

/遠い昔のことではない/『職工事情』に見る明治中ごろの雇用関係/『女工哀史』に描かれた大正末期の雇用身分制/戦前の日本資本主義と長時間労働/暗黒工場の労働者虐使事件/戦前の工場における過労死・過労自殺/

第2章 派遣で戦前の働き方が復活

/戦前の女工と今日の派遣労働者/派遣労働の多くは単純業務/1980年代半ば以降の雇用の規制緩和と派遣労働/財界の雇用戦略―『新時代の「日本的経営」』/リーマンショック下の派遣切り/雇用関係から見た派遣という働き方/中高年派遣の実態と派遣法「改正」案/

第3章 パートは差別された雇用の代名詞

/パートタイム労働者の思いを聞く/パートはどのように増えてきたか/日本のパートと世界のパート/日本的性別分業とM字型雇用カーブ/パートはハッピーな働き方か/シングルマザーの貧困/重なり合う性別格差と雇用形態別格差/

第4章 正社員の誕生と消滅

/正社員という雇用身分の成立/「男は残業・女はパート」/絞り込まれて追い出される/過労とストレスが強まって/拡大する「限定正社員」/時間の鎖に縛られて/正社員の消滅が語られる時代に/

{・・・OECDの国際比較データによると、2011年の男性フルタイム労働者の週間労働時間は、アメリカ42.5時間、イギリス43.6時間、ドイツ40.9時間、フランス40.3時間であった。このデータには日本の労働時間は欠けているが、先の「社会生活基本調査」の週53.1時間と対比すれば、日本の男性正規労働者の年間労働時間は、アメリカ・イギリスより500時間前後、ドイツ・フランスより650時間前後長い。なお、同年の日本の女性正規労働者は、国内では男性より週当たり9時間短いにもかかわらず、他の四カ国の女性フルタイム労働者より長時間働いている。・・・}

{・・・政府は正社員改革の前提として、労働市場制度の改革を提起し、「行き過ぎた雇用維持型から労働移動支援型への政策転換」を言い立てている。この転換は、従業員の再就職に人材会社を利用する事業主に労働移動支援助成金を支給するなどしてすでに実行過程にある。この点でいうなら、限定正社員制度の狙いは、「非正規の正規化」以上に、正社員の一部を限定正社員にすることを通じた「正社員の多様化」であり、「正社員の解雇の柔軟化」にあると考えられる。
限定正社員の普及は新しい法律の制定を必要としない。限定正社員は本章の冒頭にも述べたように、従来の「一般職正社員」に加えて、「エリア正社員」「時給正社員」などのかたちですでに普及している。・・・}

第5章 雇用身分社会と格差・貧困

/雇用形態が雇用身分になった/戦後の低所得層/非正規労働者比率の上昇と低所得層の増加/現代日本のワーキングプア/潤う大企業と株主・役員/労働所得の低下に関するいくつかの資料/

{・・・戦後の代表的な貧困研究としては、江口英一『現代の「低所得層」』が知られている。これは、戦後日本の貧困問題を、「社会階層」の概念を踏まえ、「低所得層」に照明を当てて考察した大著である。その方法は、戦前とは異なって社会保障制度、とりわけ生活保護制度があるもとで、広範なワーキングプアが存在していることに注目し、現代的貧困の特徴として、低所得層の存在(「階層性」)、生活水準の低さ(「低位性」)、存在の見えにくさ(「隠蔽性」)、絶えざる再生産(「長期・固定性」)などを強調している点で、今日でも学ぶべきところが多い。
アメリカの貧困をえぐったデイヴィッド・シプラー『ワーキング・プア―アメリカの下層社会』の原書が出たのは2004年2月であったが、当時、日本では「ワーキングプア」という言葉はほとんど使われていなかった。ところが、06年以降、この言葉は「格差社会」が注目を集めるなかで、労働市場の底辺にいる驚くほど多数の働く貧困層を表す言葉として広く語られるようになった。
しかし、正確に言えば、それより30年以上前に江口は、現代日本におけるワーキングプアについて注目すべき研究を行っていた。彼は先の大著で「働く貧困層」―彼の言葉では「働いている生活困窮者」―を「ワーキングプア」と呼んだだけではない。彼はイギリスの貧困研究から、「欠乏」や「困窮」をより深く「あるべきものがない状態」ととらえるために「剥奪」(deprivation, デプリベーション)という概念をとりいれて、日本の貧困研究を深め、そうすることによってこの国におけるワーキングプアの存在を「発見」した。・・・}

第6章 政府は貧困の改善を怠った

/政府は雇用の身分化を進めた/雇用が身分化して所得分布が階層化/男性の雇用未分別所得格差と結婚/高い貧困率は政府の責任/公務員の定員削減と給与削減/官製ワーキングプア/生活保護基準の切り下げ/

{・・・雇用形態の多様化は産業構造あるいは就業構造の変化によって促されてきたという見方もある。たしかに、スーパー、コンビニなどの小売・流通業従事者や、ファーストフード、外食などのの飲食サービス業従事者の増加は、パート・アルバイトなどの短時間労働者の増加をもたらさずにはおかなかった。しかし、雇用形態の多様化は、程度の差はあるにせよ、製造業、金融・保険、医療・福祉・介護・保育、学術・教育の諸分野でも進んでいる。したがって、雇用形態の多様化を産業構造や就業構造の変化だけから説明することはできない。
また雇用形態の多様化は、働く人びとのライフスタイルや価値観が変化して就業ニーズが多様化した結果であるかのように言う論者もいる。しかし、多様化を要求してきたのは労働者ではなく経営者であり、それを政治的・政策的に後押ししてきた政府である。
雇用形態の多様化の最大の狙いは、人件費の削減と労働市場の流動化(ないしは雇用の弾力化)であった。そのためには、企業は雇用期間の定めのない正社員を、雇用期間の定めがある非正規社員に置き換えることによって、可能なかぎり雇用の有期化を図る必要があった。・・・}

{・・・政党間の公務員給与削減競争は、マスメディアによって煽られて強まった面がある。自民党が国家公務員二割削減計画を打ち出したのは2005年であるが、同年9月に行われた郵政解散総選挙に際して、『朝日新聞』は、「公務員人件費 選挙で減らし方を競え」と題する社説を出した。
いわく、「大赤字を続ける国の財政を立て直すには、人件費を減らすことが待ったなしだ。総選挙は各党が人件費削減の知恵を競い合う機会にしてもらいたい」「人件費の総額を減らすには、給与の見直しでは限りがある。公務員の人数に大胆に手をつけなければならない」(2005年8月22日)
この社説が出たのは、2003年度の郵政公社化や04年度の国立大学法人化によって、国家公務員の定数が30万人以上減った後である。総務省の「国の行政機関の定員の推移」によれば、国家公務員の定員数は、2000年度末の約84万人から10年度末の約30万人まで約54万人も減少している(自衛官約25万人を除く)。
総務省のホームページに出ている資料によれば、「人口千人当たりの公的部門における職員数」は、イギリス74.8人(2012年)、フランス88.7人(2012年)、アメリカ65.5人(2012年)、ドイツ59.1人(2011年)であるのに対して、日本36.4人(2013年)となっていて日本の少なさが際立っている。
これは中央政府職員、政府企業職員、地方政府職員、軍人・国防職員の合計数であるが、日本の政府企業職員には、もともと国の機関であった独立行政法人、国立大学法人、大学共同利用機関法人、特殊法人および国有林野業の職員を計上している。また、日本の数字には、政府系法人と自衛官・防衛省職員以外は、非常勤職員を含んでいる。
公務員賃金は高すぎるという議論では、最低賃金に近い時給で働いている大量の非正規公務員の存在はたいてい無視されている。また、国家公務員でいえば、相対的に賃金の低い現業職は、郵政公社化以前の約30万人から最近では4000人台まで減らされたが、このことも考慮されていない。さらに、公務員の正規職員では勤続年数が同一ならば原則として男女の賃金格差がなく、女性の賃金が低い民間に比べて、男女計の平均は高く出るが、それも公務員高賃金論では度外視されている。正確な比較のためには同じ学歴を基準にしなければならないが、それさえ不問にした議論が多い。・・・}

{・・・2012年度については、11年6月に東日本大震災の復興財源捻出を理由に、政府が12年度より2年間、国家公務員の給与を人事院勧告にもとづくことなく平均7.8%引き下げる臨時特例法案を国会に提出し成立させたことから、異例の引き下げとなった。13年度末で終了したこの臨時措置によって、国家公務員は11年人勧の遡及分(マイナス0.23%)と、12年度、13年度の7.8%引き下げによって、新たに二年間で平均100万円近い減収を強いられることになった。・・・}

{・・・労働者が失業したときに、一時的に生活を支え、再就職を支援するのが雇用保険の失業給付であるが、日本では失業者の二割程度(15~24歳の若者では一割程度)しか失業給付を受給できていない。2009年3月のILOレポートによれば、失業給付を受けていない日本の失業者は210万人に達し、不支給率は全失業者の77%にのぼる。主要先進国ではドイツ、フランスは10%台、イギリスは40%、アメリカとカナダは57%で、日本のように不支給率が高い国はない。
非正規労働者は、不況や業績悪化に際して真っ先に雇い止めや契約打ち切りにあう。ところが、雇用保険は、離職日以前の一年間に通算して六か月以上かけていることが受給要件になっている。非正規労働者は、もともと雇用保険の加入率が著しく低いうえに、雇用期間が短いために失業給付を受けられない場合が多い。2008年11月14日の衆議院厚生労働委員会で明らかになったところによれば、07年の非正規雇用者1732万人のうち、雇用保険未加入者は1006万人で、未加入率は58%であった。・・・}

終章 まともな働き方の実現に向けて

/急がれる最低賃金の大幅引き上げ/雇用身分社会から抜け出す鍵/ディーセントワーク/

あとがき

主要参考文献

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September 16, 2018

村松岐夫・編「地方自治」

図書館で借りました。

書名:テキストブック 地方自治
編者:村松岐夫
出版:東洋経済新報社(2010年2月第1刷)


《目次》

第2版へのはしがき
初版へのはしがき

第1章 現代国家における地方自治 (村松岐夫・北山俊哉)

1 近現代国家の政治と地方政治
2 地方自治の意義
2.1 自由
2.2 参加
2.3 効率性
2.4 実験室としての地方政府
2.5 政府の任務の分担
3 日本における地方自治研究と理論モデル
3.1 戦後研究の第1世代
3.2 戦後改革と中央地方関係 /天川モデル/
3.3 1960年代以降の中央地上関係に関する理論 /垂直的行政統制モデル/水平的政治競争モデル/
3.4 最近の研究動向

第2章 日本の地方自治の発展 (北山俊哉)

1 明治の地方自治制度
/内務省/明治の地方自治制度/明治の地方財政と大合併/明治の地方自治制度の実施と変容/大正デモクラシーと地方自治/特別市制運動/明治の地方分権/政党内閣の終わりと戦時の再集権化/
{・・・明治の地方制度にも自治の要素はあり、近代地方自治の萌芽が埋め込まれていた。まず、だれが自治に参加できるかであるが、国民は住民と公民とに分けられ、地租を払っているか、または国税年額2円以上を払っているものが公民とされた。参加は、公民の義務であり、名誉とされた。議員も名誉職であり、彼らが公選されて市町村会を構成した。市町村会の選挙は等級選挙制度によって行われた。
市の執行機関は参事会、町村は町村長であった。市参事会は、市長・助役と他の参事会員より成っており、合議制の執行機関であった。町村長は町村会で選ばれ、議長を兼務したが、市長は市会が推薦する3人の候補者の中から内務大臣が官選した。また、郡会議員、府県会議員は複選制によって選ばれた。
要するに、市町村は自治体といえたが、国と市町村の中間に位置する団体(府県)は、官選知事を統括者とする国の地方総合出先機関の色彩が強かった。・・・}
2 第2次世界大戦後の地方自治制度
2.1 戦後の主な制度変革 /地方自治改革と地方自治法/改革の位置づけ/戦後地方自治の日本型モデル/シャウプ勧告と逆コース/政令指定都市と道州制/自治省の誕生/
2.2 地域開発の時代 /全国総合開発計画/地域開発の政治と行政/
2.3 革新自治体の時代 /首長公選制が可能にした革新首長/革新自治体の政治と行政―抵抗、先導、革新/
2.4 地方の時代・行政改革の時代 /実務型・相乗り知事の増加と行政改革/公共事業に見る国と地方の相互依存/
{革新自治体の時代は1970年代後半まで続いたものの、やがて終焉を迎えた。石油ショックとそれによる低成長経済の中で、福祉の大盤振る舞いをいつまでも続けるわけにはいかなくなったのである。宮本憲一が指摘するように、シビル・ミニマム論には財政政策と産業政策が抜け落ちていたという弱点があった。・・・}
3 地方分権改革の時代
3.1 地方分権改革への動き /無党派知事・改革派知事/地方制度の改革の再開/透明な行財政を目指して/地方分権推進委員会/
3.2 地方分権一括法による分権化 /地方分権一括法/総務省の誕生/
3.3 今世紀の分権化 /三位一体の改革/道州制への動き/地方分権改革推進委員会と政権交代/

第3章 各国の地方自治 (笠京子)

1 はじめに
2 地方自治類型の形成と変化
2.1 第1期:大陸型と英米型の地方自治の形成 /統合型の地方制度の形成―フランス/分離型の地方制度の形成―イングランド/
2.2 大陸型と英米型の特徴 /授権の方法の違い―包括授権主義と限定列挙主義/権限の独立性の違い―大陸型で低く、英米型で高い/総括官庁の有無、広域自治体の性格の違い、複雑さの違い/連邦制と単一制の関係/
2.3 第2期:福祉国家化と相互依存の深化 /限界の認識と新たな動き/「相互依存理論」の登場/
2.4 第3期:持続可能な福祉国家へ―行政改革と地方制度改革
3 大陸型の地方自治
3.1 フランス /フランスの地方制度の特徴/
3.2 ドイツ /連邦制の国としてのドイツの特徴/ドイツの地方制度の特徴/
4 英米型の地方自治
4.1 イギリス /サッチャー・メージャー保守党政権の地方制度改革/ブレア労働政権下の改革/
4.2 アメリカ /アメリカの地方政府の構成/福祉国家化がアメリカの地方自治にあたえた影響/
5 その他の国々
5.1 中欧・北欧諸国(スウェーデン) /スウェーデン/
5.2 東アジア諸国(韓国)
6 おわりに

第4章 自治体の統治システム (村上祐介)

1 自治体行政組織の原理
2 首長・議会に関する法制度と実態
2.1 首長に関する法制度
2.2 首長の日常活動と選挙 /経歴/日常活動/選挙/
2.3 議会に関する法制度
2.4 議会の運営と選挙 /議会の運営と役割/議員の社会的背景/報酬/選挙/
3 二元代表制の特徴
3.1 制度
3.2 二元代表制の実態と変化
4 行政委員会・委員
4.1 行政委員会の特徴
4.2 行政委員会の設置目的と種類
4.3 行政委員会をめぐる課題
5 直接民主制的制度
5.1 直接請求制度
5.2 住民投票
5.3 その他の住民参加
6 大都市に関する制度
7 自治体統治システムのゆくえ

第5章 地方税財政 (北村亘)

1 はじめに
2 歳出―何にどれぐらいの予算を支出しているのか
2.1 目的別歳出決算額―何に使っているのか
2.2 性質別歳出決算額―どのように使っているのか
2.3 二元代表制の財政的インプリケーション―都道府県の実例
3 歳入―どこからどのようにして予算を調達しているのか
3.1 地方税
3.2 移転財源―地方交付税制度と国庫支出金制度 /地方交付税/国庫支出金/
{・・・地方交付税制度が抱える最大の問題は、国税5税から繰り入れられた原資と財源不足額(基準財政需要額と基準財政収入額との差)が一致するとは限らないという点である。正確にいえば、財源不足額を埋めるには国税5税の繰入分では到底足りない状態が常態化している。1990年代後半からは毎年度10兆円規模の地方財政赤字といっても過言ではない。交付税原資と財源不足額との乖離に対して毎年末に行われてきたのが「地方財政対策」と呼ばれる補填措置の方法をめぐる対立である。地方財政対策では、総務省(旧自治省)と財務省(旧大蔵省)の関係部局が「相対取引」している点で、財務省と他の省庁との予算折衝と異なる独特な行政過程である・・・}
3.3 地方債
4 地方自治体での予算編成
5 地方税財政制度の再設計
5.1 課税自主権の政治的行使
5.2 シティ・リミッツ論と「福祉の磁石(Welfare Magnet)」
5.3 地方債市場の整備
5.4 「暗黙の政府保証」論とベイルアウト期待行動の誘発

第6章 地方自治体の組織と地方公務員・人事行政 (稲継裕昭)

1 地方自治体の組織
1.1 自治組織権と都道府県の組織
1.2 自治体組織の具体例
1.3 自治体の縦の職務階層―全国的な傾向
2 最近の組織再編の動き
2.1 政策目的に対応した組織への再編
2.2 組織のフラット化―組織階層の簡素化
3 自治体で働く公務員(地方公務員)と人事行政
3.1 地方公務員の種類と数
3.2 採用
3.3 配属と異動
3.4 昇任
3.5 人事交流
3.6 給与
4 今後の自治体の人事給与制度

第7章 ガバナンスの時代の地方自治―NPMとNPO (秋月謙吾)

1 ガバナンス
1.1 企業経営におけるガバナンス
1.2 公共部門におけるガバナンス /「ガバナンス」への4つの方向性/「ガバナンス」論の射程の広がり/
2 NPMに基づく行政改革
2.1 NPMの定義
2.2 日本におけるNPMの展開 /「制度面」からの説明/地方自治体によるNPMの「先導」/
2.3 NPM改革の手法 /行政評価/ PFI(Private Finance Initiative)/独立行政法人化/公会計改革/
3 NPOの台頭
3.1 「参加」の問題 /市民・住民と参加・運動の2×2のバリエーション/
3.2 新しい形態としてのNPO /ロバート・パットナムのソーシャル・キャピタル論/
3.3 NPOにかかわる国・地方の政策 /NPO法/地方自治体のNPO支援策/パートナーシップ体制の整備/
4 おわりに

第8章 合併と広域連携 (北原鉄也)

1 基礎自治体の変遷
1.1 「明治の大合併」―近代国家建設に向けて
1.2 「昭和の大合併」―高度経済成長に向けて
1.3 「平成の大合併」―地方分権・財政再建に向けて
2 基礎自治体の再編成
2.1 基礎自治体の規模拡大と広域行政 /規模拡大の背景/広域行政/
2.2 広域行政のもう一つの可能性 /国際的比較/広域連携の試み/新たな広域連携/
3 おわりに

第9章 教育 (青木栄一)

1 地方政府と教育
1.1 基本的情報
1.2 教育の分離―緊密な融合関係から緩やかな融合関係へ
1.3 政府間財政関係
2 地方政府における教育行政の変化
2.1 独自施策の展開
2.2 都道府県
2.3 市町村
3 分権一括法後の改革課題
3.1 教育委員会制度改革
3.2 学校改革と教員政策
4 ナショナル・ミニマムと地方政治

第10章 福祉政策と費用負担 (沼尾波子)

1 戦後日本の福祉政策の推移―措置から権利へ
1.1 救貧政策としての福祉
1.2 福祉六法の成立―防貧対策としての福祉
1.3 施設から在宅サービスへ
1.4 財政再建と福祉サービス
2 高齢者福祉と介護保険制度
2.1 介護保険制度導入の経緯
2.2 介護保険制度の概要
2.3 介護保険制度をめぐる課題 /地域間格差/低所得者対策/サービス利用者の急増と費用負担/
3 障害者福祉と自立支援
3.1 障害者福祉政策の概要
3.2 支援費制度の導入から障害者自立支援法へ
4 子育て支援と民間委託
4.1 子育て支援をめぐる国と地方の役割分担
4.2 子育て支援をめぐる現金給付と現物給付
4.3 民間委託方式の導入
5 福祉サービスの分権化と地域福祉の将来
5.1 福祉サービスの分権化と費用負担
5.2 地域福祉計画の策定
5.3 地域福祉における分権化
5.4 地域福祉の課題 /民間事業主体との協働の仕組み/複合型施策の推進と財源保障/

終章 近現代の地方自治思想 (村松岐夫)

1 中央政府の「分岐」としての地方政府
2 地方「自治」論の登場
/ルートヴィッヒ・フィンケ/トールミン・スミスとフェビアニストたち/フランスの地方自治/ディロンの原則とホームルール-直接民主主義/
3 地方自治思想の現在
/地方自治理論史の総括/


参考文献
事項索引
人名索引
執筆者紹介


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September 10, 2018

アンドルー・ゴードン「日本労使関係史 1853-2010」

図書館で借りました。

書名:日本労使関係史 1853-2010
著者:アンドルー・ゴードン
訳者:二村一夫
出版:岩波書店(2012年8月)


《目次》

日本語版への序文/謝辞
凡例

序章

{・・・日本の労使関係は、しかるべき限定を加えても、まだきわめて独特であることから、そこでまず、1950年代以降の日本企業における特質を説明することから始めよう。
問題の核心は以下のように単純な命題である。日本の大企業プルーカラー労働者は、企業内において、欧米の多くの国なら賃労働者であるよりもホワイトカラーとみなされる地位を享受している。日本のブルーカラーは、企業の正規の構成員(フル・メンバー)として扱われ、彼ら自身もそう考えている。その地位は、工場生活の諸側面において誰の目にも明らかである。
第1に1950年代以降、「正規」労働者と定められた者は、相当程度まで雇用の安定を享受しており、ブルーカラーでも同一企業内で昇進を望むのがごく普通である。大企業の一斉解雇(レイオフ)は稀で、景気後退局面においてさえ簡単に解雇することはない。経営者による人員削減は可能であり、現に実行されているが、正規労働者をあからさまに解雇することはなるべく避け、手の込んださまざまな戦術をとることを強いられている。こうした雇用慣行はしばしば「終身雇用」(permanent employment)と呼ばれるが、「終身」という表現は誤解を招くおそれがある。この言い方だと、大部分の労働者が実際にその職業人生(キャリア)のすべてを同一企業で過ごすかのような、誤った印象を与えかねない。だが実際には、熟練した工場労働者にとって、労働移動は、さほど珍しいことではない。むしろ基本的な特徴は、正規労働者がその企業に留まりたいと考えれば、それが可能な点にある。
同様に重要な特徴は、いわゆる年功賃金と年功序列である。賃金は月給として支払われる。月給は継続年数のほか、かなりの程度まで各企業特有のその他の諸要因によって決まる。給料は、主に継続年数・職位、さらに企業内における評判や評価次第で、職務内容や熟練度との明白な関連はほとんどない。またその賃金水準は、彼が同一産業の他企業に移った際に引き継がれることもない。労働者の収入の主要部分は基本給で、同一職務に従事していても毎年定期的に昇給する。毎年の昇級総額、経営側に認められる裁量の範囲―従業員個々人の技倆や勤勉度、企業への協力的な態度を評価し昇給に差をつけるなど―は、組合との交渉によって決まる。また、最低条件さえ満たしていれば、会社は労働者をほぼ定期的に昇進させる。こうした慣行は、同じ会社でずっと働き続ける労働者に対し、将来の地位と収入増を保障し、長期雇用の傾向を強めることになる。
賃金以外のさまざまな給付も―これを本書では企業福祉と呼ぶことにするが―日本の雇用制度の第3の柱を構成している。会社の気前よさの典型例は、健康保険や手厚い補助をともなう社宅や住宅ローン、社内の売店が提供する安価な品々、さらには会社が主催する種々の余暇活動などである。こうした施策によって得られる生活の安定は、従業員が同一企業にとどまる傾向を促進し、雇用主に対する肯定的な態度を作り上げるのを助けている。
最後に、会社レベルで組織されている労働組合は、主要な活動単位であり、組織として独自性を有している。一般的な日本の労働組合イメージとは異なり、戦前や敗戦直後の企業別労働組合は、それほど弱体ではなく、協調的かつ従順な組織だったわけでもない。ただ、1950年前後に始まる熾烈な労働組合撲滅策によって生み出された御用組合=第二組合は、同業他社の組合とほとんど提携せず、企業忠誠心が強いことで知られた組織である。大多数の組合は、企業の長期的安定と組合員の将来的な利益を確保するため、穏健で短期的な要求を出し続けることを厭わない。こうした態度が効果を発揮するのは、組合員が長いあいだ同じ企業に雇われ、実際に同一企業に留まっている場合である。このように労使関係の諸側面は互いに補強しあっているのである。
この労使関係の構造は、企業内における労働者の位置に関わる諸慣行―仕事の保障、賃金、賃金以外の諸給付および組合組織―の組み合わせから成り立っている。この構造は、労働者と経営者、さらには官僚との間の、それも時として騒然たる対立を伴う相互関係を通じて発展してきたものである。第1章以下では、この日本型を生み出したこの3つの集団―もちろんどの集団も決して一枚岩ではなかった―が目的・利害・活動をめぐって相互に闘争し、妥協してきた過程を描くことになろう。そこでわれわれが発見するのは、いわゆる伝統的諸慣行、すなわち年功賃金やとりわけ「終身雇用」が、日本労使関係の出発点には存在せず、これらの諸慣行は、日本がまさしく「近代化」(産業化、都市化、識字率の向上)したことによって、はじめて根付いた事実である。広く使われている伝統と近代という言葉は、この研究の枠組みとしては有効な概念ではない。・・・}

【第Ⅰ部 産業革命期の労働者と経営者】

第1章 工業労働者の組織化

新たな労働者と古くからの慣行
明治の労働社会
{今日(原著刊行は1985年)の日本はきわめて均質な社会である。都市とその郊外における中産階級の生活様式が強力なモデルとなって全国民の生活に影響を及ぼしている。しかしこの同質性を「伝統社会」の遺産から説明することには無理がある。なぜなら幕末日本は同質性とはほど遠い社会だったからである。法的・社会的障壁が、武士と農民、農村と都市の住民とを、明確に隔てていた。明治維新から30年以上も経過した20世紀への転換期でも、日本社会には実に多様な人びとが混在していた。造船所や工場で働く労働者の態度・行動様式は、地主や小作人など農村部の住民はもちろん、都市住民でもより豊かで高い教育を受けた人びととは大きく異なっていた。
工場労働者は、伝統業種の職人や不熟練の屋外労働者、人力車夫などとともに、労働貧民(ワーキング・プア)という、より大きな社会的カテゴリーに属していた。ただ工場労働者はその腕が買われ、雇用が比較的安定していたから、労働貧民のなかでは比較的ましな部類に属していた。しかし当時の言葉で「下層社会」の一員である事実に変わりはなく、その生活様式や志向は、とても「労働貴族」と呼び得るものではなかった。その収入の不安定性と厳しい労働条件とは、彼らと、教育を受けて社会的に尊敬されている人びととの間を大きく隔てていたのである。・・・}
{・・・労働者が経営者層と異なっていたのは、貧困と黒ずんだ顔だけではなかった。この時期の日本の労働者は、上司の命令に従うのも嫌なら、仕事熱心でもなかった。彼らを工場規律に従わせるよう訓練するのは容易なことではなく、19世紀末から20世紀初頭になっても、まだ成果は上がらなかった。…}
明治の労使関係―間接管理のジレンマ
労働運動と労働者階級
{・・・1890年代のこうした要求は、後年のより高い政治意識をもつにいたった労働者にも受け継がれた。彼らは日本鉄道の労働者と同様に、人間としての尊厳と社会的地位への関心を抱きつつ、これを労働者の権利として要求したのである。「人間的に処遇さるべきこと」、さらに企業構成員として(メンバーシップ)の諸条件の改善を要望し、あるいは要求することは、20世紀日本の労働者意識の一部であり続けたのである。
ホワイトカラー従業員と同等に尊敬され処遇されるべきことを絶えず求めた明治労働者の声は、社会的地位が悪化したからではなく、そもそも社会的に低いことに対する鋭敏な感覚を反映したものであった。・・・}
{・・・明治の労働者は自然の流れとして工場別に組合を組織した。なぜなら、彼らは、衰退過程にある徳川時代の職人社会が提供する都市ギルドの職能別組織しか知らず、工場別組合から出発する他なかったからである。明治の労働者は、工業化前に、公式にも非公式にも、都市と都市を結ぶ地域的な職能組織や全国的職能組織の伝統をもたず、これはイギリスや他のヨーロッパやアメリカの労働者と日本の労働者との決定的な違いであった。この出発点の相違が、その後の日本の労働運動の歴史を他国とは著しく異なるものとした。・・・}
{・・・1900(明治33)年という時点に立って将来を展望すると、雇主と一体感を抱く労働者を想像するより、強力な労働組合運動の再出現と日本的な階級意識の展開が予測されるであろう。当時の労働者の大多数は、自らを単一の労働者階級と意識することはなかったにせよ「下層社会」の一員であると考えていた。自らを特定の企業の一員であると考える労働者は稀だったし、総じて工場の労働規律を受け容れようとはしていなかった。これ以後の何十年間かは、親方をはじめ労働者を会社の管理下に置こうとする経営者と、自らの社会的地位を向上させ、職場や工場を基盤に労働運動を築き上げようとする労働者との闘争を目撃することになるであろう。}

第2章 温情主義と直接的管理

変化の動因
新たな労務管理へ
「職工」の反応

第3章 労務管理改革と労働運動 ―1917~1921

労働力問題―規律、労働移動、賃金
{経営者は、19世紀以降、工場規律に服さず、自分勝手に振る舞う労働者に悩まされ続けてきた。たとえば仕事熱心な芝浦製作所の工場主任・小林作太郎は、1900年代初頭に彼が実施した諸改革について論じているが、現場労働者への対応に苦慮し、彼が試みた諸改革の結果には満足していなかった。彼は、1908(明治41)年に寄稿した雑誌連載論文で、日本の労働者に対する不満を述べている。若い労働者のなかには教育をうけた者が増えているが、彼らは自己主張が強く、立場をわきまえていない。昇進が遅いとすぐに辞め、遊牧民さながらに工場から工場へと渡り歩く。一方、年配で無教育の労働者も同様で、気位が高く、過去の経験だけに頼り、教えようがない。「彼らに何か教え込もうとしても無駄だ。まるで馬の耳に念仏だ」と、小林はこぼしている。<ジャパン・アズ・ナンバーワン>と呼ばれ、勤勉と能率が売り物の現代日本から見ると意外なことだが、小林作太郎はアメリカ視察旅行の際に、日本の労働者が模範とすべき労働者を発見している。彼は、アメリカ人労働者が規則を守り、時間どおりに出勤し、ぶらぶらせず、前日の出来高を倍増させようと毎日努めているのを目の当たりにし、「そのはたらきぶりは、我が日本の職工には、容易に見る事は出来ませぬ」と述べている。さらにアメリカの労働者は従順で教えやすい。「米国では相当の教育がなければ、職工になれぬのであります。それゆへ西洋の職工は、一つの命令でよく仕事が出来るのです。・・・}
労働者階級の挑戦

【第Ⅱ部 労働者と経営者―戦間期における雇用制度】

第4章 渡り職工の消滅?―採用と長期雇用

職工生活のはじまり
定着―雇用保障と労働運動
不況からの脱却

第5章 賃金制度の複雑化

賃金の設計
労働運動の影響
{・・・何人かの学者が主張しているように、1920年代に年功賃金制度が誕生し、あるいは具体化したと見ることは、事態を誇張するものであろう。こうした理解では、労使の利害およびその力量、その双方に関し、ともに誤った理解を招くことになろう。賃金のかなりの割合は出来高給によるもので、日給も勤続年数だけでなく、数多くの要因によって決まったのである。昇給額は会社の評価によって左右され、労働者間では恣意的な判断やえこひいきに対する不満が日常的に口にされた。不況になれば昇給はストップし、好況時でも、常用労働者全員が昇給したわけではなかった。この時期、年功賃金制はゆっくり形を取り始めていたに過ぎない。経営側は「基幹工」の移動を抑制しようと努め、毎年昇給の約束はそうした努力の一環であった。約束は常に守られたわけではないが、古参熟練労働者は、一般的に勤続年数も経験も少ない者より高い賃金を得ただけでなく、それを当然のことと考えていた。勤続7年の労働者の日給が勤続15年の同僚より多かった1902(明治35)年の事例は、1930(昭和5)年であれば経営者を驚かせ、労働者の感情も害したであろう。・・・}
賞与、退職金、共済給付

第6章 企業共同体―会社、組合、労働者組織

政府の役割
会社と組合
{・・・神野が、より広範な運動基盤を求めていたことを具体的に示す証拠は、1929(昭和4)年の武相連盟への参加であった。自彊労働組合は、一年も経たないうちに横浜船渠工信会を押しのけて連盟の主導権を奪い、武相連盟は「日本主義」労働運動の最先端を切ったのである。1930年と32年に、武相連盟は、老朽船を解体し新船の建造を促進する法律の制定を求める運動を積極的に推進した。この軍と産業の復興とあわせて雇用の拡大を約束する運動は、日本主義労働運動を成功させたもうひとつの「経済的」要因だった。1932年と33年、武相連盟は国防献金運動の先頭に立った。この運動は、連盟傘下の組合員が、特定の日にその日稼いだ賃金の金額を、陸海軍が必要とする装備とりわけ飛行機の購入のために献金する運動であった。日本主義労働運動はまた、後藤文夫をはじめとする新官僚と結んだほか、国粋主義者の安岡正篤と彼が率いる金鶏学院と提携して活動したのである。
自彊労働組合と日本主義労働運動のイデオロギーには、反資本家、反大企業の意味合いが含まれていた。神野は、石川島造船所の松村菊男を、資本家でありながら祖国への奉仕に使命感をいだく例外的な存在として賞賛する一方で、朝は遅れて出勤し午後2時には退社してしまうような「悪質な資本家」を非愛国的寄生虫であると糾弾した。ひょっとすると石川島造船所、浦賀船渠、横浜船渠などの企業経営者は、極右労働運動を奨励することで、危険な火遊びをしていたのかもしれない。しかし彼らは、少なくとも1941(昭和16)年までは、国粋主義的労働組合を容認することにより、失うよりはるかに多くを得ていたのである。日本の工業家らは、右翼が企業活動を規制、制限する具体的な計画をもっていても、それを阻止し、弱める力は有していた。
1930(昭和5)年、武相連盟は、自彊労働組合の主導下に、日本造船労働連盟へと改組し、組織基盤の拡大をはかった。さらに1933年、日本造船労働連盟は日本産業労働倶楽部の設立に参加した。日本産業労働倶楽部は、総同盟系の穏健な日本労働倶楽部に対抗して設立された組織で、「愛国的労働者」を広く全国的に組織し、資本主義社会から紛争を一掃するという、野心的な長期目標を掲げていた。日本産業労働倶楽部は、全国の工場に労働者と経営者からなる委員会の結成を呼びかけ、相互信頼と尊敬にもとづく新たな労使関係の構築を目指していた。1934年現在で、日本産業労働倶楽部には加盟15組合、1万5000人の組合員が参加していた。その中で自彊労働組合は単一組合としては最大の組合員3400人を擁していたが、それには石川島造船所だけでなく、付近の小工場の組合員110人も含まれていたのである。1920年代の石川島造船所に発祥したこの「日本主義労働運動」は、ついには1930年代末における産業報国運動に、具体的構想を提供すると同時に、その重要な支持勢力となったのである。・・・}
雰囲気と態度
労働者階級、1921~1932年
{・・・労働者間には、引き続き横の連帯を可能にする一般社会からの断絶感が存在し、全国的な労働組合の連合体も存続していた。しかし、1930年代初めまでに、大工場に自立した組合はほとんど残っていなかった。労働組合運動全体としては、1930年代にはさらなる発展を続け、労働組合員数は1936年が戦前のピークであるが、労働組合の大多数や労働争議は小規模工場へ移っていた。また、労働者総数の増加率は組合の成長をはるかに超え、組織率のピークは1931年の7.9%であった。組合の基盤である労働者数は増加したが、組合そのものの重要性は減退したのである。1930年代の労働組合は、日本経済の将来の鍵をにぎる企業や産業分野において活躍できなかった。日本が戦争への準備を進めるなかで、重化学工業分野で飛躍的な成長の先頭に立った主要企業では、労働組合やストライキはほとんど見られなくなった。大企業では、1910年代後半から1920年代前半のように、若く活力にあふれた労働運動が持続的な組織へと成長することはなかった。
この失敗を、部分的ながら説明する理由としては次の3点をあげることが出来よう。その第1は、10年に及ぶ経済の停滞によって組合活動が守勢に回り、ストライキや組織活動が困難になったことである。・・・
・・・失敗の理由の第2は、労働運動に対する弾圧が続いたことである。・・・
1928(昭和3)年3月以降、政府は左翼労働運動、とりわけ共産党と評議会に弾圧の矛先を向け、これによって左派の犠牲の上に、中間派組合が伸びる結果となった。・・・
労働運動敗北の原因の第3は、絶えざる派閥抗争が、運動の力をそいだことにある。・・・}

【第Ⅲ部 戦時の労使関係と政府】

第7章 長期雇用と統制賃金

官僚主導へ
{・・・1930年代半ばまでに、労働運動に関心をいだく知識人や労働問題を所管する政府官僚の多くが、一般的な経営慣行にきわめて批判的になっていた。住友本社や住友電線労務課に勤務したことのある南岩男は、社会的に影響力のある内閣調査局に転職した後の1936(昭和11)年、労務管理の現状を改革する必要がある点で、協調会職員と意見が一致した旨を記している。彼が主要な問題として取り上げたのは、長時間労働、不安定な賃金、機械化が進んだ工場での労働者の解雇であった。・・・
・・・こうした不満を、潜在的ながらきわめて強烈に表現したのは、1936(昭和11)年に始まった産業報国運動であろう。産報運動の生成に関与したのは複数の組織―石川島自彊労働組合を中心とする労働運動の極右派と協調会、それに内務省および厚生省の一部官僚、とりわけ内務省警保局官僚―であった。・・・}
{・・・もともと産報運動の創始者らは、労働組合の対立物として産業報国会を考案したのであるが、次の2点において産報は第二次大戦後の穏健な企業別組合の成長を促進したと言いうるかもしれない。そのひとつは、産報懇談会が数千もの工場で働く何百万という労働者に、待遇や福利厚生その他の労働問題について論ずる機会を提供したことである。この組織的体験と仕組みとは、戦後になって、とりわけ経営側の支援によって結成された労働組合の出発点となった可能性がある。第2に各企業の産報会はホワイトカラー、ブルーカラーを問わず全従業員を入会させ、これが戦後の企業別組合にホワイトカラー従業員を数多く加入させる契機となったのかもしれない。さらに戦時下だからこそ、産報が重要なインパクトを及ぼした点がある。労働者は国家への奉仕者として重要な責務を果たしているのだから、彼らに敬意をはらうべきであること、また労働者を職員と同等に扱い両者の関係改善をはかること、これらは産報イデオロギーの一部であった。・・・}
労働移動の規制
賃金統制
{・・・戦争中、政府の命令によって賃金を統制したことはさまざまな矛盾を引きおこした。賃金が低く抑えられたことにより、労働移動、仕事の掛け持ち、規則無視、労働意欲の低下が生じ、賃金抑制は結果的に生産性向上の狙いに逆らうことになった。生活賃金の考え方も、生産を向上させるために短期的な刺激策を用いたい経営側の欲求と真正面からぶつかった。収入全体から見たとき、戦争中、重工業における賃金において年功、つまり勤続年数の要因は低下した。代わりに能率刺激給による収入が増大し、これは一般に日給とは関連していなかった。
しかしながら、政府による諸規則は、官僚が現行の慣行に対していだいた不満とその改善要求を反映し、経営側に賃金構造の根本的見直しを強いた。これによって生じた変化は、戦後になって後戻りすることはほとんどなかった。1937(昭和12)年にごく少数の企業から始まった家族手当は重工業全体に浸透し、これは他の諸手当や福利厚生制度についても同様であった。終戦直前には、軍の圧力によって、出来高賃金制が廃止され、月給が導入された事例も存在する。最後に、日給が決定的に変化した。年齢的要素が初めて加味されるようになったのである。最も重要な点は、労働者全員を対象とする定額、定期的な昇給が定期的に実施されるようになり、理想であるが実行されない状況から抜け出したことであった。
また、労働者がリーダーシップをとって要求を出す際に、彼らは生活賃金の考え方を武器として用い、昇給を渋る経営側に政府の賃金統制が用いている用語を振りかざしたのである。こうした行動は、労働者側が、年齢、勤続年数に対応する賃金を守る上で役立つと同時に、終戦直後の「生活賃金」要求の先触れともなったのである。}

第8章 産報―労働組合不在の労働者組織

職場における産報組織
社内の地位と勤労意欲、そして産報
{・・・1944(昭和19)年、南岩男―当時は大日本産業報国会関東地方部長―は、もし産報指導者が労働者に対する侮蔑的な態度を変えないなら、産報運動が全工場を一体化させることなど出来るはずがないと論じている。南は、労働者は技術的、経済的、組織的に企業への重要な貢献者であるとして、彼らを人として尊敬すべきことを、再三呼びかけている。技術は人間を助けるために使われるべきで、人間を圧迫するために使われるべきではない。賃金は適正でなければならず、組織もまた地位の低い労働者を苛酷に待遇してはならない。彼はまた、労務部と人事部を分けずに人事部に一本化し、職工と職員の双方を管轄し、両者の相互信頼を増進するよう提唱している。
戦争が終結に近づいたころ、軍需省と厚生省とは、各企業における職員と職工の仕事と地位階層とを一本化する計画案を策定したが、棚上げされてしまった。作業現場で入手したさまざまな証拠が示しているのは、経営側は労働者を部外者と見なし、相変わらず差別的に処遇していた事実である。戦時下では、年2回の賞与の上昇率は、労働者が職員を上回っている。しかし1939(昭和14)年に神奈川で実施された重工業22社を対象とする調査によれば、労働者の賞与は職員賞与の約10%に過ぎなかった。その数年前の日本鋼管の数字が3%であったことに比べれば若干改善されてはいるが、その差は依然として大きい。・・・}
{・・・企業共同体(コミュニティ)は、協調性ある小社会にせよ、経営者と労働者の大家族にせよ、戦争が始まるまでは実在するものではなく、理想像にすぎなかった。産報運動も、美辞麗句に満ちた宣伝や工場懇談会・職場懇談会などが数多く生まれたとはいえ、破滅的な戦争が終結するまで、企業共同体の理念は現実的なものとは言い難かった。大げさな文句で飾り立てられた産業報国のお説教と厳格な労働統制とが、労働者に企業忠誠心を植え付けることはなかった。1941(昭和16)年と42年に、争議件数は減少したが、その後3年間はまた増加し、インフレ、配給、長時間労働、自由の制限、生活水準の低下が深刻な結果をもたらした。戦時中、重工業で働く労働者は無感動的であり、常習的に欠勤し、労働意欲は低く、時には経営側に対し敵対的態度をとったのである。
文字どおりの悲惨な状況だったにもかかわらず、日本人の多くが職場にとどまったのは、会社への忠誠心というよりも、盲従的かもしれないが愛国心と、生き延びようとする意思だったと考えるべきであろう。・・・}

【第Ⅳ部 戦後の決着】

第9章 組合主導の労使関係

{・・・アメリカの初期対日政策は、日本史上例のない、労働組合に対する無条件の法的支援を要求するものであった。・・・1945年12月末、国会が労働組合法を承認した・・・
労働組合法は、労働者に団結権、団体交渉権およびスト権を保証し、また使用者が組合活動を理由に労働者を差別することを禁止した。しかし同法の目的は労働者の経済的利益を守ることにあり、アメリカ側に政治的労働組合運動を奨励する意図はなかった。占領軍当局(連合国軍最高司令官=SCAP)が著しく不快に感じたのは、労働組合が急速に政治闘争に参加し、共産党や社会主義政党を支持したことにある。SCAPは、こうした急進的な全国的組合を抑えることには一応成功したが、労働組合が社会主義政党を支持するという日本にすでに根付いていたヨーロッパ型の慣行まで変えさせることは出来なかった。・・・}

企業共同体の再構築
{・・・賛否が分かれたのは、象徴的であれ実際的であれ、工員・職員カテゴリーの廃止であった。1946(昭和21)年春、日本鋼管の労働組合は新たな序列の計画を提起したが、妬みと不信が入り交じった感情が残っており、組合・会社間だけでなく、組合内でも意見が一致しなかった。組合員の中には、工員も「社員区分」に引き上げるべきだと主張する者がいる一方、全員を中立的な用語の「従業員」とする提案を支持する者がいた。日本鋼管では、1948年に、従業員とすることで合意が成立した。こうした交渉は全国各地で広く行われた。1947年から48年にかけて、ほとんどの企業が、工員と職員の名称を従業員に一本化している。これによってすべての位階制が消滅したわけではないが、全従業員が単一の昇進制度に統合された。言うところの新たな「機能的序列」―見習工、工員、伍長、職長、課長、部長―の昇進制度が採用されたのは、かつての身分秩序の復活を恐れた組合の抵抗があったからである。この恐れに根拠がないとは言い切れなかった。学歴によって昇進に上限が存在する現実があったからである。しかし少なくとも建て前の上では、はじめて全従業員が単一の序列に組み込まれることになった。・・・}
年功賃金を超えて―労働組合と賃金
{第二次大戦中、労働者に最低限の生活を保証する賃金を支払う必要性が公的に認められ、日本史上はじめて政府が賃金決定に介入した。この賃金統制は、部分的にではあるが生活給の確立を目指して、あらかじめ設計された複雑な賃金管理の仕組みを用いたが、失敗に終わった。失敗の原因は、理念や適用について一貫性を欠いたために能率刺激給の拡大を防ぎえなかったこと、さらに戦時経済の破綻により、国民生活を守るいかなる試みも意味をなさなかったからである。にもかかわらず、経営側は、労働者の技能や実績とは無関係に全員を定期的に昇給させるよう強制された。また賃金体系でも、技能や生産性より、家計の必要性に焦点をあてた賃金制度が指示され、食料手当・通勤手当・精勤手当・家族手当といった複雑な手当制度が広がった。
賃金統制は戦後も1年以上続けられたが、あまり成果はあがらなかった。・・・・・・戦後の賃金構造を形成し、賃金水準を決定する上で、最低賃金制よりずっと力があったのは、労働力需要であった。・・・}
{・・・戦後初期の賃金をめぐる経緯をひとことで言えば、生活の必要にもとづく生活給をめぐる闘争であった。組合はまた、賃金の制度化と安定を求め、定期的な賃上げ、公正な配分、安定した月給と多額の賞与を要求し、個人別出来高給への依存度を減らそうとしていた。・・・}
{・・・電力労働者は、新たな賃金制度の獲得を先導するのに好適な位置にいた。戦時中、経済官僚は電力を重視し、真剣に取り組んだ。1936(昭和11)年、政府は、賛否両論があった国家総動員の先触れとして、発電企業を国営化したのである。さらに1942年には、全国を9地域に分割し、各配電会社による全国的な送電網を形成した。国有化は労働者間に官僚統制への嫌悪感をもたらした。それと同時に、地域的には孤立していたが、共通の目的のもとに働く熟練労働者間の連帯感を強めることにもなった。さらに、この産業では、ブルーカラー労働者も高度な教育が要求されたため、職制との間で、教育程度や考え方にさほどの違いがなかった。また官僚との接触が多く、中央における政治的決定が産業の動向に大きな影響を与えることから、政治意識の高い組合員が生まれていた。1947年の調査では、電力労働者の57%が社会党を、13%が共産党を支持していた。・・・}
{・・・1940年代後半に普及した能率賃金と戦前・戦中の能率賃金の間には2つの点で大きな違いがあった。まず戦後の場合、個人の生産性と出来高給の関係は間接的で、単価設定やその切り下げが、労働者に深刻な影響を及ぼすことはなかった。戦前では、一般に出来高給の単価が個人やグループ単位で決められていたのに対し、戦後は東芝・日本鋼管を含む大多数の企業で、出来高給基準は工場単位で設定されるようになったのである。経営側の狙いは、個々の労働者を急き立てて働かせるよりも、工場全体の生産高と支払賃金総額との間に関連をもたせることにあった。これによって賃金総額を、企業収入や支払い能力の範囲内に収めることが出来る。工場全体あるいは企業全体の出来高割増給は総生産高によって左右されるが、割増分を個人に配分する際は、一般に出勤率をもとに計算したり、あるいは単純に基本給に比例して算出したのである。この賃金支払いが、各人にとってより間接的で安定したものになればなるほど、個々の労働者も、この制度に反感を抱かなくなって行った。・・・}
終身雇用の要求―かなわぬ夢
{賃金の安定と同様に、仕事の保障が、組合の重要な目標として浮上してくるのは当然だった。しかし、年功賃金に比べ、これははるかに獲得しがたい目標であった。戦前、経営側の温情主義的イデオロギーによる雇用安定は、好況時にしか通用しない約束だったが、それは1945(昭和20)年でも同じことだった。終戦時に経済が急落したとき、企業は即座に大量の人員解雇を実施したのである。
この結果、数百万人もの失業者が発生した。生産水準が戦時中の20~30%に落ち込んだ中では、どの企業も戦争によって膨張した労働力を保持しえなかった。この状況下で、いくつかの有力組合が、獲得したばかりでまだ試されていない力を、解雇反対に集中させる決定を下したことは、欧米の労働市場の動向になじんだ観察者にとっては理解困難である。なぜ組合は、秩序だった一斉解雇から先任順による再雇用の仕組みをつくり、最終的に再雇用を目指すといった、より現実的で達成可能な立場をとろうとしないのだろうか、どうして東芝の労働組合は、工場の40%が空襲によって破壊され、海外資産の相当部分が凍結され、毎月の賃金が生産高の70%にも達するといった状況のなかで、3万5000人(戦争中のピーク時には4万2000人)もの仕事を守れると考えたのであろうか。
歴史的な由来をもつ、組織と賃金決定の特質とが、こうした組合の行動に影響していたのである。各人の給与が勤続年数と社内におけるその地位に関連している場合、解雇されれば、職を失うだけではなく、その勤続年数と職位を次の雇用先へ持っては行けず、低いレベルから再出発を余儀なくされる。組合員資格が特定企業の従業員に限られ、包括的な全国的な労働組合連合体がまだ形成されていなかったから、解雇されれば、即組合員資格の喪失となった。・・・有効な公的福祉制度が整備されていなかった1945(昭和20)年、1946年の日本では、失業の脅威は正に生存そのものへの脅威であった。さらに、労働者の多くは、経営トップが復興を「サボ」って生産を制限し、貴重な原材料を秘匿していると信じており、それには一定の根拠があった。ここから直ちに導き出される結論は一斉解雇は不要だ、ということである。経営側が原料の秘匿をやめ、生産を再開しさえすれば、仕事がなくなるはずはない。生産管理戦略や解雇に対する抵抗も、この論理から生まれたものであった。加えて、解雇と再雇用に関するルールや慣行はまったく存在していなかった。・・・}
{・・・当時の労働攻勢は、単なる賃金と雇用の安定だけでなく、あらゆる要求を結合した願望に基づいていた。労働者は長年にわたって否定され続けてきた市民としての平等、また従業員としての平等を求めたのである。この平等は、もちろん、経済的には職員と対等の安定した仕事の要求となり、また職員と同等の生活給要求として表現された。同時に、政治的・象徴的側面としては、経営協議会への参加や身分制度改善の要求に表現されていた。20世紀に入ってから一貫して労働者イデオロギーの一部であった、当然の経緯を払うよう求める欲求は、1946(昭和21)年、47年においても、相変わらず強かったのである。労働組合は、組合員が抱いていたこうした欲求を実現する限りで、彼らの支持と支援を集めることが出来たのである。しかし社会の主流たる中流階級の一員たること(メンバーシップ)、また企業内のより良い地位につくことに価値を見出していた事実は、持続的で階級意識の強い運動を作り上げることには繋がらなかった。これに続く何年かのあいだ、経営側は、折を見て譲歩し、あるいは強硬な態度で交渉に臨み、また組合破壊工作を行うといったやり方を組み合わせることで、労働運動を分裂させ、急進派を孤立させ、経営側に有利な形で再構築された労使関係の上に、強力な資本主義経済を再建したのであった。}

第10章 経営主導の労使関係

経営権の復活
賃金体系の再編
{・・・労働側は大幅なベース・アップに加え定期昇給も目標にしたが、経営者は当然のことながら定期昇給のみを望んでいた。ベース・アップには「生活給」的な響きがあるが、定期昇給にはそれがなかった。たいへん皮肉なことだが、戦前の労働者にとって、毎年保証された昇給つまり定期昇給は、要求はしても簡単には実現しない理想であった。まして賃金体系そのものの引き上げであるベース・アップなど、問題にもならなかった。経営慣行は選別的かつ不定期の賃上げであり、労働者が求めたのは全般的な定期昇給であった。つまり、戦前の労働者にとっての「最大限」目標が、戦後組合では妥結の最低線となったのである。実際、定期昇給の確保だけでは、組合はこれを敗北と認める他なかった。そうした敗北は、1950年代では稀ではなかった。だがその敗北でさえ、10年、15年前に比べれば、前進だった。歴史的に見ることで初めて、戦前を知る古参の労働者が、この「敗北」を受け入れたことを説明することが出来る。・・・}
{・・・伝統や現代性は、明確には把握しがたい概念である。これらの概念は、日本労使関係史の出発点や終着点を示しているわけではなく、また途中の主要な転換点を指し示す目印でもない。経営者の賃金政策において、能率や生産性といった現代的な関心は常に明示されてきた。変化したのは、これをいかに確保するか、その方法であった。同じことは、労働者の間における雇用保障に対する関心についても言える。関心そのものは変化しなかったが、それを獲得する方法は、より効果的になって行ったのである。労使双方とも、単に伝統から現代へと進んだのではなく、恣意的な賃金制度から、より秩序だった賃金制度へと進み、その途中で政府による統制の時代と組合優勢の時代を通過したのであった。}
雇用保障問題の決着
{・・・東芝の経営者は、終戦以来ずっと労働力の削減策を探究してきた。株主に対して1949(昭和24)年争議の問題点を率直に説明した手紙のなかで、会社は1946年から48年まで、「労働者とその家族への配慮」から労働力の自然減と配置転換のみに頼ってきたため、余剰人員を抱えこんでいることを明らかにしている。もちろんこの「配慮」の一部には、独創的な闘争戦術で知られた労働組合の力に対する判断も含まれていた。会社はこれに続けて、1948年12月の新たな経済政策が、問題の重要性を変化させたことを説明している。東芝は、戦時中の工場疎開により地方に小規模の不採算工場を数多く抱え込んでいたが、その閉鎖を取引銀行から要請されたのである。これは会社にとって必要不可欠な6億円の融資を受けるための条件であった。ドッジ政策は、銀行が経常赤字の企業には融資しないよう命じていたのである。またドッジ公使による国家予算削減命令は、東芝製品の重要な購買者である政府と電力産業による買い上げ額を激減させていた。株主への手紙は「徹底的な合理化」を断行する以外に選択肢はないと結論している。・・・
・・・組合はこれ以降、一枚岩的に団結した強力な諸組織と対決せざるを得なくなった。政府・SCAP・日経連さらには主要銀行の全てが、ドッジ・ラインの下で労使対決は不可避であることを理解し、積極的に会社を支援し、経営者有利の状況下で組合と対決することを歓迎したのである。経営側は巧妙に立ち回り、失業不安につけ込んで組合の分裂を図った。・・・
1949(昭和24)年7月5日、東芝は16主要工場で働く2万2207人の従業員のうち4581人の解雇計画を発表した。・・・・・・11月には、新たな東芝労連が結成され、旧組合は闘争をあきらめ、最初に提示された解雇を正式に受け入れた。
この東芝のドラマは全国的に繰り返された。・・・}
{・・・すでに見たとおり、日本の労働組合は未だかつて職能(クラフト)別、あるいは職業(トレード)別の組織であったことがない。彼らは、技術革新によって危機にさらされた特定の職種を守ろうとはしなかった。それは組合が成長し、20世紀の初めに絶えず技術の近代化が進展した時期においてさえそうであった。彼らは職能(クラフト)を守ろうとはせず、それより常に企業内での雇用を確保しようとしたのである。・・・}
{・・・日本の状況では、人員整理は労働者の抵抗をひきおこす可能性が高く、解雇を選択するのは賢明とは言えず、むしろ非合理的な選択だったに相違ない。・・・
・・・日本鋼管、東芝、三菱横浜造船所、そしてこの石油化学会社のいずれもが、労働力の余剰に直面した時に、一時解雇・優先再雇用より、配転を選択したのである。さらに、大企業では、1950年代以降、ブルーカラー労働者の採用は、未経験の新規学卒者を対象とするようになっていた。会社としては、彼らを訓練するための投資が長期勤続によって回収されることを期待している。こうした新卒者の採用は1920年代、1930年代ではごく一部にとどまり、戦時中に政府がこれを推進しようとしたが、成功したとは言えなかった。経済復興にともない、こうした慣行が初めて統計上にも反映するようになった。「定期採用」と言う言葉は、「定期昇給」にならって、新たに作られた言葉であった。・・・こうした若者に対する訓練投資の回収を狙っていた経営側は、あらゆる機会をとらえ―それには欧米の社会学者との討論も含まれるが―企業と従業員の相互責任を強調した。これには、それ相応の理由があった。経営者には、労働者の間に古きよき時代の名残として存在し、当時消えかかっていた忠誠心―「一生を捧げる」―といった考えを示したいとする動機があり、意識的に案出する必要さえあった。労働組合側も、その力を証明し組合員の支持を集めようと必死であったから、雇用保障をめぐる彼らの闘争の成果を誇示する相応の理由があった。このような労使双方の期待・イデオロギー・レトリックの組み合わせから、過去と現在における終身雇用の神話が作り出されたのである。
実のところ、採用後の労働者と会社の行動をみれば、昔も今も、現実がこの言葉と遠く隔たっていたことは明らかである。戦後のブルーカラー労働者のうち、勤続年数が10年、5年に達する者さえ少数派である。・・・・・・戦後の労働者の方が、会社により忠実であった。おそらくそれは、労働条件が改善されて離職者が減少したこと、また労働組合が解雇を許さなかったからであろう。とはいえ、それも「終身」ではない。・・・}

【第Ⅴ部 労使関係―高度成長期とその後】

第11章 日本型労使関係のヘゲモニー

職場活動家の挑戦
闘争など想像もつかぬ時代

第12章 日本型労使関係の終焉?

世紀末、世紀初頭の労使関係―評価の激変
世紀転換期の労使関係―制度の再編
継続と変化―正社員の世界
{・・・つまり従業員の視点から見れば、一般に日本的雇用制度の中核である正社員の世界においてさえ、不安定要因は存続している。というよりむしろ著しく拡大している。世間で一部の人びとが考えているほど、彼ら「フル・メンバー」は、安定的な立場で甘やかされているわけではない。その不安定さは、いまだかつてないほど大きい。2010(平成22)年現在、彼らの所得はかつてなく不安定であり、本社から子会社や分社化された企業へ配置転換される可能性も大きくなっている。こうした不安定性は、自身の出世のため、彼らの雇主のために長時間、懸命に働く誘因となっている。中核的な正社員として残った人びとにとって、21世紀への転換期の数十年間は、企業中心社会のヘゲモニーを拡大、深化させた時期なのであった。・・・}
変化する非正規雇用の世界
{・・・少なくとも3つの重要な変化が、非正規雇用をめぐる事実とその意味に関し重要な非連続面を形成している。
その第一は、男性の非正規雇用者、とりわけ若い成年男子の非正規労働者が急激に増加したことである。・・・
・・・2000年代の非正規雇用の世界における、第2の新たな特徴は、「男性稼ぎ手型」が、少数派ではあるが相当数の女性の経済状態と整合しなくなっている事実がある。・・・
・・・第3のそして最後の注目点は、この20年余の間に、種々のカテゴリーの非正規労働者がその数と比率を急増させたが、正規労働者の数は実質的に変化していない事実である。・・・これは、いかにして可能となったのであろうか?その答えは次の2点にある。(1)女性の労働力比率が緩やかに増加し、増加者の多くは非正規労働に従事したこと。(2)最も重要な点は、就労人口全体に占める自営業主と家族従業者の数および比率が急激に減少したことである。1982(昭和57)年には就労人口の17%、950万人が自営業であったが、2007(平成19)年には、その数は670万人へと300万人弱減少し、その比率は10%を僅かに上回る程度にすぎない。・・・}

結論

{・・・日本労使関係の第一世代は、1850年代から1870年代にかけて幕府や明治政府によって設立され、1880年代に民間の資本家に払い下げられた工場や造船所の経営者と労働者であった。そこでは間接的管理体制が採用されたが、その仕組みは、欧米の産業社会の初期と、いくつかの点で類似していた。数百人もの労働者を指揮監督する経験がなかった日本の経営者は、「親方」労働者の権威と専門知識に依存したのである。・・・日本の工場労働者の第一世代は、欧米の労働者と同様、工場労働が要求する規律には慣れておらず、その職業人生を賃金労働者として過ごすことを好まなかったのである。
労使関係史の第2期は、経営による労働者支配が相対的に制約されることのない、直接的管理体制の出現によって特徴づけられており、時期的にはおおよそ1900(明治33)年から1939(昭和14)年に及んでいる。19世紀から20世紀への変わり目に、間接的管理体制の再編を主導したのは経営者であった。彼らは、世評を気にして温情主義的配慮を謳うと同時に、独自の新機軸を打ち出し、直接的管理を強行したのである。・・・第一次大戦末期の数年間を分水嶺に、作業現場における力関係は僅かながら変動し、経営者の行動様式もまた変化した。第一次大戦時の好況と労働運動の高揚、この2つの衝撃は、初期の家父長制的な直接的管理を時代遅れにしたのである。・・・第一次大戦と第二次大戦の間にみられたシステムは、いくつかの点で戦後高度成長期における日本的労使関係の予兆でもあった。この時期の重要な特徴をなしたのは、労働者側では雇用の安定と賃金の定期的上昇への期待であり、経営者側は従業員が企業に対し長期的に献身することへの期待であった。とはいえ、こうした期待と現実との間には不一致点が多かったのではあるが。
日本労使関係の第3期は、1939(昭和14)年から1980年代までの長期に及び、経営者支配が相対的に制限され、標準化され統制のとれた管理様式の出現によって特徴づけられた時期である。恣意的な慣行による方式から、かなりの程度まで安定的で予測可能な制度へと、3つの段階を追って移行し、期待と現実の落差は縮小した。第3期は歴史的に著しく異なる3段階から成るが、経営者のやり方を変化させたのは、第二次大戦中の政府の介入であり、敗戦直後における労働組合の活動であった。この国家政策と労働攻勢によって、経営者は誰もが、同じような方針を採用せざるをえなかったのである。戦時動員と労働者の権利擁護という、根本的に異なる2つの狙いによって、これらの変化が引き起こされたのは、皮肉なことであった。戦後の労働組合による攻勢が、労働者に有利な状況をもたらしたことは明瞭で、これは1939年から1945年に、厚生官僚の政策によって引き起こされた変化とは比べようもなく大きなものであった。1940年代後半から1950年代にかけて、経営者と組織労働者との間で、労使の権利、役割および発言権をめぐって熾烈な闘争が発生した。戦闘的でしばしば過激な組合は、石炭産業のように成長から斜陽へと変わりつつあった産業だけでなく、回復から長期的成長へと向かっていた産業でも、職場を支配しようと企て、ある程度はそれに成功していたのである。第11章で述べたように、1960年代までに、経営者優位のもとで、労使関係は協調主義的に決着がつけられた。その後しばらく、とりわけ1980年代においては、多くの人が、日本型労使関係は、労働組合と企業とが産業平和を達成し、生産性と製品の品質の高さにおいて着実な成果をあげている点で、世界のモデルであると見ていたように思われる。・・・協調的な日本型労使関係は経営者だけでなく労働者にも大きな利益をもたらすと、これを賛美してきた人びとの見通しは外れた。1990年代から2000年代の20年間は、高度成長期のシステムが決して安定したものではなかったこと、労使間の争いはいまだに続き、多様な様式の雇用形態へと、さらなる変化を続けつつあることを示している。
労働者・経営者・国家の間に緊張関係が存在するのは世界共通である。特殊日本型を生みだしたのは、そうした緊張関係が展開する際の、独特の歴史的諸連関であった。・・・この歴史の流れは3つの注目すべき特徴を有していた。第1の、基本的に重要な特徴は、日本では、あまり規制を受けない資本主義的企業システムが出現したことである。経営者はたえず生産性と効率に注意をはらい、それが工場生活や労働者の対応に重大な影響を及ぼしたのである。資本主義的発展にとって不可欠な条件は、場所や時代を超えて同一ではない。やや遅れて発展を開始した中進国という独特の立場は、日本企業の出発点を特徴づける第2の点である。第3に、新たに誕生した明治期の工場に持ち込まれた工業化前の労働者の慣行と思考は、日本の工場労働者の主要な関心事を解き明かしてくれる。・・・
・・・渡り職工や親方は、彼らの流動性や独立心を、過去の職人社会から工場内へと持ち込んだ。熟練労働者の第一世代は、仕事から仕事へと転々と職場を変えることで経験を積み技能を磨いた独立心の強い男たちが主体で、転職こそが労働者としての職業人生(キャリア)を育てる主たる方法だと考えていた。・・・彼らの素朴な独立志向と工場規律に対する嫌悪感とは、大企業にとってさまざまな問題を引き起こしただけでなく、生まれたばかりの労働組合にとっても問題だった。経営者は労働者を直接管理できなかったため、親方の知識と統率力に頼って工場を経営した。間接的管理は、過去からの伝統を引きずっている労働者への最初の対応策であった。後になると、経済成長にともない、経営者は労働者に移動の習慣を棄てさせるため、種々の実験をこころみている。
過去と関連する労使関係の第2の特質は、日本の労働者が労働組合を工場や作業場単位に組織する傾向である。徳川時代の職人組織は都市部に限られており、産業革命期になると、都市に住む職人は、地方への製品供給者としての力を失っていった。モデルとなるギルドのネットワークがなかったので、鉄工組合の親方や渡り職工、さらに彼らの後継者たちは、職場を基礎に組織をつくるのは、しごく当然であると考えていた。欧米的な考え方からすれば、徳川時代の職人組織がその組織範囲を限定していたことは、消極的で異常な、あるいは「歪んだ」遺産であり、欧米の研究者は、工場や職場を基礎とする日本の企業別組合は、通常の組合運動から逸脱した組織形態だと考えがちである。だがヨーロッパや北米の労働組合の方が、早期に発展しただけに例外的な存在であるのかもしれない。・・・
・・・過去の歴史はまた、労働者が社会の一員たること(メンバーシップ)を認められ、正当に処遇されたいとする、強い欲求をもたらした。・・・}
{・・・労働者の間により深く定着していた考えは、一般社会や企業内において平等に処遇されることであり、対等な身分を獲得することであった。そうした考えは、第一次大戦前に花開いた民主主義的思想・急進的思想よりも長く生きつづけ、経営者に対し持続的に圧力を加え、ついには慣行を変化させたのである。19世紀と同様に、第一次大戦中から戦後にかけて、社会と企業において一人前の構成員として認められたいという考えは、日本の労働者のさまざまな思考の中心に存在していた。明治期の企業では、最高経営者から一部の職員にいたるホワイト・カラーには、工場で働くブルーカラー労働者とは質的に異なる給与や手当、雇用保障、昇進機会などが与えられ、それによって企業の正規構成員(メンバーシップ)としての条件を明確にしていたのである。20世紀になると、会社は職員だけに与えていた手当などの支給範囲を、ごくゆっくりとではあるが生産現場の男子労働者にも広げていった。そうした変化を引き起こした背景には、労働市場や労働運動の力が働いていた。・・・}


訳者あとがき
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August 29, 2018

山本義隆「磁力と重力の発見 3 近代の始まり」

ネット購入、第三部。これで終わり。

書名:磁力と重力の発見 3 近代の始まり
著者:山本義隆
出版:みすず書房(2003年5月)


《目次》

第一七章 ウィリアム・ギルバートの『磁石論』

1 ギルバートとその時代
2 『磁石論』の位置と概要
3 ギルバートと電気学の創設
4 電気力の「説明」
5 鉄と磁石と地球
6 磁気運動をめぐって
7 磁力の本質と球の形相
8 地球の運動と磁気哲学
9 磁石としての地球と霊魂

第一八章 磁気哲学とヨハネス・ケプラー

1 ケプラーの出発点
2 ケプラーによる天文学の改革
3 天体の動力学と運動霊
4 ギルバートの重力理論
5 ギルバートのケプラーへの影響
6 ケプラーの動力学
7 磁石としての天体
8 ケプラーの重力理論

第一九章 一七世紀機械論哲学と力

1 機械論の品質証明
2 ガリレイと重力
3 デカルトの力学と重力
4 デカルトの機械論と磁力
5 ワルター・チャールトン

第二〇章 ロバート・ボイルとイギリスにおける機械論の変質

1 フランシス・ベーコン
2 トマス・ブラウン
3 ヘンリー・パワーと「実験哲学」
4 ロバート・ボイルの「粒子哲学」
5 機械論と「磁気発散気」
6 特殊的作用能力の容認

第二一章 磁力と重力―フックとニュートン

1 ジョン・ウィルキンズと磁気哲学
2 ロバート・フックと機械論
3 フックと重力―機械論からの離反
4 重力と磁力の測定
5 フックと「世界の体系」
6 ニュートンと重力
7 魔術の神聖化
8 ニュートンと磁力

第二二章 エピローグ―磁力法則の測定と確定

1 ミュッセンブルークとヘルシャムの測定
2 カランドリーニの測定
3 ジョン・ミッシェルと逆二乗法則
4 トビアス・マイヤーと渦動仮説の終焉
5 マイヤーの磁気研究の方法
6 マイヤーの論理―仮説・演繹過程
7 クーロンによる逆二乗法則の確定

あとがき



文献
索引

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August 27, 2018

山本義隆「磁力と重力の発見 2 ルネサンス」

書名:磁力と重力の発見 2 ルネサンス
著者:山本義隆
出版:みすず書房(2003年5月)


《目次》

第九章 ニコラウス・クザーヌスと磁力の量化

1 ニコラウス・クザーヌスと『知ある無知』
2 クザーヌスの宇宙論
3 自然認識における数の重要性
4 クザーヌスの磁力観

第一〇章 古代の発見と前期ルネサンスの魔術

1 ルネサンスにおける魔術の復活
2 魔術思想普及の背景
3 ピコとフィチーノの魔術思想
4 魔力としての磁力
5 アグリッパの魔術―象徴としての自然

第一一章 大航海時代と偏角の発見

1 「磁石の山」をめぐって
2 磁気羅針儀と世界の発見
3 偏角の発見とコロンブスをめぐって
4 偏角の定量的測定
5 地球上の磁極という概念の形成

第一二章 ロバート・ノーマンと『新しい引力』

1 伏角の発見
2 磁力をめぐる考察
3 科学の新しい担い手
4 ロバート・レコードとジョン・ディー

第一三章 鉱業の発展と磁力の特異性

1 一六世紀文化革命
2 ビリングッチョの『ピロテクニア』
3 ゲオルギウス・アグリコラ
4 錬金術にたいする態度
5 ビリングッチョとアグリコラの磁力認識

第一四章 パラケルススと磁気治療

1 パラケルスス
2 パラケルススの医学と魔術
3 パラケルススの磁力観
4 死後の影響―武器軟膏をめぐって

第一五章 後期ルネサンスの魔術思想とその変貌

1 魔術思想の脱神秘化
2 ピエトロ・ポンポナッツィとレジナルド・スコット
3 魔術と実験的方法
4 ジョン・ディーと魔術の数学化・技術化
5 カルダーノの魔術と電磁気学研究
6 ジョルダーノ・ブルーノにおける電磁力の理解

第一六章 デッラ・ポルタの磁力研究

1 デッラ・ポルタの『自然魔術』とその背景
2 文献魔術から実験魔術へ
3 『自然魔術』と実験科学
4 『自然魔術』における磁力研究の概要
5 デッラ・ポルタによる磁石の実験
6 デッラ・ポルタの理論的発見
7 魔術と科学


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August 24, 2018

山本義隆「磁力と重力の発見 1 古代・中世」

ネットで中古を買いました。

書名:磁力と重力の発見 1 古代・中世
著者:山本義隆
出版:みすず書房(2003年5月)


《目次》

序文

第一章 磁気学の始まり ―古代ギリシャ

1 磁力のはじめての「説明」
2 プラトンと『ティマイオス』
{・・・はっきり言って『ティマイオス』の議論は、プラトン思想の本筋であるイデア論からの逸脱であった。
とはいえ根源粒子にたいするプラトンのこの正多面体理論は、素粒子の世界は三次元特殊ユニタリー返還(SU(3))にかんする対称性を有し、素粒子はSU(3)群の既約表現で分類され記述されるという現代物理学の理論と、その根本思想においてそう遠くにあるわけではない。もちろん実験的根拠の有無という点でも数学的精巧さという面でも、プラトンの理論が現代の素粒子論と比べようもないにしても、物質世界を究極的に構成していると想定される基体は、感覚には捉えられないけれどもしかし数学的に単純な構造を有し、したがって数学的に厳密に理解できるはずであるという思想を最初に提起したことにおいて、それは決定的な歩みであった。そのことを考えれば、プラトンの空想は二千数百年先の物質理論のありようを予兆したと言えないことはない。}
3 プラトンとプルタルコスによる磁力の「説明」
4 アリストテレスの自然学
5 テオプラストスとその後のアリストテレス主義

第二章 ヘレニズムの時代

1 エピクロスと原子論
2 ルクレティウスと原子論
3 ルクレティウスによる磁力の「説明」
4 ガレノスと「自然の諸機能」
5 磁力の原因をめぐる論争
6 アプロディシアスのアレクサンドロス

第三章 ローマ帝国の時代

1 アイリアノスとローマの科学
2 ディオスコリデスの『薬物誌』
3 プリニウスの『博物誌』
4 磁力の生物態的理解
5 自然界の「共感」と「反感」
6 クラウディアヌスとアイリアノス

第四章 中世キリスト教世界

1 アウグスティヌスと『神の国』
2 自然物にそなわる「力」
3 キリスト教における医学理論の不在
4 マルボドゥスの『石について』
5 ビンゲンのヒルデガルト
6 大アルベルトゥスの『鉱物の書』

第五章 中世社会の転換と磁石の指向性の発見

1 中世社会の転換
{・・・こうしてヨーロッパは11世紀から13世紀にかけて空前の都市化の波に洗われたのであり、13世紀には全人口の一割が都市に集中していたと言われる。
この傾向は13世紀にはいるといっそう顕著になり、1226年から70年にいたるまでのルイ九世治世のフランスでは、都市に住む自由身分の人口が増加するとともにその活動領域が広まっていった。のみならず王は中央集権を強めるために支配機構内部に都市市民のエリートを登用し、こうして近代的な国家機構の出現にともない知識階層としての官僚層が産み出されていった。さらにまた国庫を豊かにする必要に迫られた王権は、力をつけた町人階級との結びつきを強化し、その見返りとして都市自治体の発展を支援し、都市にいくつもの特権を与えた。ドイツにおいても1190年にはじめて都市自治が誕生し、以降、都市化の波は13世紀中つづいた。その結果、都市市民は政治的にも経済的にもよりいっそう力を蓄え勢力を伸ばしてゆき、かくして12世紀から13世紀にかけてヨーロッパには、従来の祈る人(聖職者)、戦う人(貴族・騎士)、働く人(農民)の三身分におさまらない、都市を生活基盤とする官僚や商人や製造業者―将来のブルジョアジー―がその存在を主張しはじめたのである。そして彼らは商業的目的からであったが読み書きを学び、新しい文化の土壌を形成することになる。こうして聖職者だけが文字文化の担い手であった時代は終わる。
都市の発展に並行して、12世紀にはパリをはじめ、ボローニャ、サレルノ、モンペリエ、オクスフォードにこれまでになかった教育機関としての大学の登場を見ることになる。・・・}
2 古代哲学の発見と翻訳
3 航海用コンパスの使用のはじまり
4 磁石の指向性の発見
5 マイケル・スコットとフリードリヒ二世

第六章 トマス・アクィナスの磁力理解

1 キリスト教社会における知の構造
2 アリストテレスと自然の発見
3 聖トマス・アクィナス
4 アリストテレスの因果性の図式
5 トマス・アクィナスと磁力
6 磁石にたいする天の影響
{・・・いずれにせよ、磁石で擦った鉄針がつねに北を指す―北極星に引かれているように見える―という特異な事実の発見は、後期中世ヨーロッパの人たちにたいして天の物体(北極星)が磁石に直接作用し影響を及ぼしているということを強く確信させたことは確かである。・・・
・・・さらに後の17世紀になっても、アリストテレス自然学にかわる新しい自然哲学として「化学哲学」を提唱したロバート・フラッド(1574-1637)は、天の物体が広大な距離をへだてて地上に影響を及ぼすことの証拠として、羅針儀の針がつねに北極星を指しつづけることを挙げていたのである。これはギルバートが地球は磁石であり、地球上の磁針の運動が地球磁石によることを示した後である。かくのごとく、磁石の指向性の発見は、単に磁石理解にとどまらず、中世後期から近代初頭にかけてのヨーロッパの自然観に―とりわけ天体が地上物体に力を及ぼすという占星術や魔術に通底する思想を根拠づけるものとして―絶大な影響を与えてゆくことになる。・・・}

第七章 ロジャー・ベーコンと磁力の伝播

1 ロジャー・ベーコンの基本的スタンス
2 ベーコンにおける数学と経験
3 ロバート・グロステスト
4 ベーコンにおける「形象の増殖」
5 近接作用としての磁力の伝播

第八章 ペトロス・ペレグリヌスと『磁気書簡』

1 磁石の極性の発見
2 磁力をめぐる考察
3 ペリグリヌスの方法と目的
4 『磁気書簡』登場の社会的背景
{・・・12世紀の都市の勃興と大学の形成以降は、知的分野において修道院のはたす役割の比重が低下し、聖職者による知の独占は掘り崩されてゆくことになった。
かくして13世紀には、大学でいわゆる「自由学芸」を修め、社会の技術的要請に応えうる専門家としての実力を身につけ、知識を生計の手段とした新しい階層としての都市市民が登場することになる。・・・}
5 サンタマンのジャン


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