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January 28, 2024

ジンメル『ジンメル宗教論集』

HMVネット購入。2023年4月14日注文。

書名:ジンメル宗教論集
著者:ゲオルク・ジンメル
編訳:深澤英隆
出版:岩波文庫(2021年12月第1刷)

《目次》

凡例

【一 社会学と認識論の視座】

※ 宗教社会学のために(1898)

※ 宗教の認識論に寄せて(1901)

{・・・神の概念からその存在を論理的にみちびきだしたり、存在の事実から神の必然性を演繹したりといったかつて犯された誤りは、宗教性のある特定の内容のみを正当なものと認めようとする教義的なこころみにも反映している。そうしたこころみにおいては、宗教的心情が内的矛盾に巻きこまれることなくながれこむのはその特定の内容のみである、と考えられたり、あるいは理論的世界像が生みだしたとされるその内容に対して、宗教固有の反応を論理的に強制できると考えられたりした。しかし宗教的なるものをひとつの形式的根本カテゴリーとして認識することによって、これらすべてから解放される。このカテゴリーは、存在のカテゴリーがそうであるのと同様に、たしかになんらかの内容を必要としてはいる。しかしやはり存在のカテゴリーと同様に、形式としてのその柔軟な性格は、それがになうことのできる内容の幅に表れている。結局のところこうした宗教理解こそが、宗教的感性を超越的対象との排他的なむすびつきから解放してくれるのである。
人間であれ事物であれ、この世の対象との感情関係のうちにも宗教的としか呼びようのないものが、数多くある。美的感性をもった人間と明白に美的なものとの関係、労働者とその興隆すべく奮闘する階級との関係、あるいは誇り高き貴族とその身分との関係、敬虔な魂と伝統や伝承されたものとの関係、愛国者と祖国との関係、熱狂家と自由や友愛や正義の理念との関係—これらの関係はすべて、その内容はたがいにかぎりなく異なっているにもかかわらず、おなじ心理学的調子を共有しており、それは宗教的なものと呼ぶほかないものである。というのもその調子は、希求と享受、あたえることと受けとること、謙遜と高揚、融合と疎隔の、あの独特の交錯として分析できるものの、それらから合成することはできない特有の統一をもつものだからである。私の確信するところでは、狭義の、超越にかかわるものという意味での宗教は、こうした端緒、宗教の原理のこうした渾然とした低次の表れが発展をとげ、先鋭化し、純化し、絶対化したものとみることによってのみ、理解することができる。
もちろんこのように言ったからといって、宗教そのもの、ないし宗教の内容の実質的な意義について、予断を下すものではない。そうした意義は、その歴史的・心理学的生成とはまったく別に、妥当性と検証請求をもつものである。・・・}

{・・・宗教的信仰の最奥の本性は、私にはむしろ以下のようにのみ表現できるものと思われる。つまり、宗教的信仰とは人間の心の状態、ひとつの事実性であり、理論的なものがすべてそうであるような、そうした事実性のたんなる反映ではないのだ。確かに知性も心のある特定のありかたである。ただ、私たちの本性全体のうちでのその役割について見れば、知性の過程そのものとそこに表れた現実存在のありかたは、知性の内容の背後に完全に退いてしまう。理論的存在者としては、私たちは事物の事実内容の非個人的なうつわとして、無であり、無関心な鏡である。その固有の存在は、鏡に映るものにくらべて、とるに足らないものである。認識に向かうとき、関心は認識を支える活動に向けられるのではなく、その認識に支えられる実質的内容に向けられる。私たちが宗教信者である場合はこれとは反対に、非信仰者や他宗教の信者と自分たちを区別するにあたって、私たちは私たちの意識が反映する内容の差異ではなく—この差異はここで探求されている信仰の概念にとっては特別な意味をもたない—私たちの心そのものの状態によって区別するのである。宗教的神信仰は、内的な存在のありかたである。それはもちろん理論的側面とその理論的帰結をもつものであり、また理論的に表現されることもあるかもしれない。ただ理論的神信仰や理論的神認識においては、私たちの心の状態は、なんらかの表象内容の、たんなる無私の、後景に退いたにない手でしかないのだ。
そして、神の実在への信仰のみではなく、宗教的心情が広義の神の認識と呼ぶものは、神をなんらかの表象内容として意識することではなく、神との心胸のうちでの合一の事実なのであり、またその合一は神への私たちの帰依と、神を現実の事象として受けとることにある。この認識の表象的側面は、そのたんなる鏡像にすぎないのだ。・・・}

【二 生・救済・人格】

※ 汎神論について(1902)

※ 魂の救いについて(1902)

{・・・キリスト教において、もちろんもっぱら断片的とはいえ、暗示されている魂の救いの理想に特徴的なのは、この私たちの人格の彫琢、人格の人格自身でないものすべてからのこの解放であり、自我の理念と法則にしたがってみずからを生き抜くことが、同時に神の意志への従属を、神の規範にしたがった生を、現実存在の終極的価値一般との一致を意味する、という点である。魂が求める救いとは、もしそれが魂のうちにいわば理念的な輪郭線であらかじめ描かれているものでなく、また魂が自分自身への途上で見いだすものでないならば、それは魂の救いではなく、味気ない、魂とは内的にへだたったなにかでしかないだろう。そこからすれば、さまざまな救済の概念のなかには、魂にその救いを強制的におしつけるようなたぐいのものもある。それは、さながら外部にある権力によってなされる、外からの命令や改造のようなものである。外面的な行いやドグマ的信仰に依存するこうした救いは、魂自身にとって偶然的ななにかであり、魂の自由を損なう強制である。宗教的な要請の内容がおのおのの人間自身のうちで現実となるとき、そして私たちにおいて私たち自身でないものからの解放が要求されるとき、そのときはじめて宗教的救済の場所は、同時に自由の王国となるのだ。・・・}

※ 生の対立と宗教(1904)

※ 宗教哲学の一問題(1905)

{・・・むしろいかなる場合であれ宗教においてあとに残るもの、またあの自分を信じきることもできないでいる批判的精神がそこに確固たる足場を見いだしうる場所は、宗教の教説のうちにではなく、いわばその下部にある、宗教において残り、充足をあたえるのはさまざまな心的な力や欲求なのである。それらはもちろんそのときどきのドグマの集合体においてのみそとに表れるが、しかしこの集合体に加えられる致命的な批判をも、ちょうど果実をもがれた樹がまた翌年果実を実らせるように、生き延びてゆく。宗教を生みだすものは、それそのものがすでに特定の信仰表象という意味での宗教だというわけではない。それはむしろはるかに一般的な、人間の存在の奥深くに埋めこまれている本能的欲求であり、内的運動である。ドグマ的な主張が、「真か偽か」という問いのまえに立たされ、打ち負かされてしまうのに対して、存在性は、すなわちそうした本能や欲求の事実性は、まったくこの問いの彼岸にある。宗教における永遠なるものは、この、なお宗教ではないが、宗教において生産的となり、宗教において終息点を見いだすあこがれなのである。
終息とは言っても、それは個人にとってのことであって、歴史的生は宗教的内容を休みなく生みだしては破壊するのであり、また一見したところこのうえなく堅固に存続している内容でさえも、たえず大小の改変にさらされている。・・・}

※ 神の人格(1911)

{・・・神の概念はあまりに多くの異なった歴史的内容と解釈の可能性に晒されてきたので、現代人にとってもはやいかなる内容によっても規定できないような感情が残るばかりとなった。それは、言うなれば、神の概念のさまざまに異なる規定のすべてに共通するものを表す抽象概念よりも、 はるかに一般的ななにかである。
これは信心のきわみとも呼びうるものだろう。というのも、いわばそこでは信じられているのみであって、信仰という形式そのものが、その内容をなおどのようなかたちであれ示しえないままに、魂のうちで作用しているからである。これは対象のがわから見れば、つぎのように表せる。つまり、存在の問いないし事実が、宗教的意識の論理において、優先権を獲得した。実在はいわばその内容を飲みこんでしまったのだ。・・・存在が信仰の対象なのだ。神がなにであり、いかにあるか、ということは悟性と直観と伝承が決める。しかしそれらによっていわばできあがったものとしてしめされる形象は、そのままではまだ、理念的でなお疑わしい概念として宙にういた状態にある。信仰がはじめて、その形象を存在の堅固さへと押しだす。この存在は、悟性や想像力の、たんなる量的・質的な規定によっては、まったく把握しえないものである。信仰とはいわば、存在そのものを私たちに伝達する感覚器官なのだ。・・・}

{・・・存在するものとしての神的なるものへの信仰を原則的に拒絶することはよしとしても、信仰するにせよしないにせよ、神をその理念において人格として描くことは、けっして神の人間化なのではない。そうではなくむしろ逆に、それは人間の自我を、ある存在様式についての全く一般的な概念のもとに置くことなのである。人間の自我がその存在様式の個別的で限定された事例であるのに対し、神はその絶対的な、世界的全体に相対するかたちでの実現たりうるのだ。
こうして私たちは人格のこの本質像をなお別の、いわばより集約的なかたちにおいてみることができるようになる。一にして同一である主客の内的な自己分離、他者を汝と呼ぶようにみずからに我と言う能力、自分自身の機能を自分自身の内容とする自己意識こそが、人格的精神の決定的な特徴であるように見える。自己意識によって、生はみずからのうちで屈折し、自分自身を再び見いだした—これは当然ながら、端的に一体的な作用を時間的継起へと引き離して表現したものにほかならない。人間精神が、その統一のうちにとどまりながら、それでもなお自分自身を自分自身に対し対向させること、これは根本事実であり、そう呼びたければ、精神の根本的奇跡と呼んでいいことであって、それが人間精神を人格的精神とするのである。自分自身の存在や自分自身の知をめぐる知に見られるような、知るものと知られるものの同一性は、ひとつの根本現象であって、これは一者性と二者性との機械的・数量的な対立のまったく彼方にある原現象なのだ。生命の道のりにあっては、その生体のあとにつづく瞬間のおのおのが、先行する瞬間によって生きるが、両者は異なるとともに、なおひとつの生命である。またそこでは産出されたものが算出するものを引きつぐが、両者は異なるとともに、なんとはなしに同一である。この時間的に延長された道のりは、自己意識においてうしろへと曲げ戻される。あるいはそこにおいて、その無時間的な根本形式を見いだす。有機体と機械的機構とをもっとも深く分けるのは、複数性がそこでは一体性へと統合されており一体性が時空間にしたがって見れば複数的な生へと展開されるという事実である。この事実は、人格的精神の本質において、すなわち自己自身についての意識において、さながら一点へと集約される。なぜなら、生あるものと精神一般の本質である「相互作用」は、自己意識において、つまり主体がそれ自身の客体であることにおいて、いわばその絶対的なかたちを獲得したからである。
ここにおいて神の本質である一体性が象徴化される形式は、もっとも純粋に表現されているように見える。宗教史学のがわからは、いまだかつて全く純粋な一神教があったためしはない、との主張がなされた。神の原理は、それが熾天使なり「諸霊」なりが神を支えるといった程度のことであったとしても、分裂への傾向を避けがたく自己のうちにもつように見えるのだ。そして、汎神論や、部分的には神秘主義にも感じられる神のまったき一性は、同時に現実の諸現象の複数性への、神のもっとも完全な解体なのである。
人格概念への接近は、以上で示されたものと思えるのだが、当然ながらここではことに注意深くそれを擬人論と区別しておかなければならないだろう。思惟は自己意識とともにその統一性のうちにとどまりながら自分自身の客体となるために、自己のうちで自己を分裂させる。この自己意識は思惟一般の根本事実であり、思惟のもっとも集約された類型にしてそのもっとも純粋で確かな形式であり、いわば個々の内容ある思惟すべての予型である。・・・}

【三 芸術としての表れ】

※ キリスト教と芸術(1907)

※ レンブラントの宗教芸術(1914)

【四 モダニティーとの相克】

※ 宗教の根本思想と近代科学 アンケート(1909)

※ 宗教的状況の問題(1911)

{・・・話を単純にするために、ここではまず決定的に、あますところなく「宗教的な本性」をもつ者について考えてみよう。純粋にそのありのままに見るならば、そうした本性をもつ者は、なんらかの所有物や能力のように宗教をもっているのみではなく、その存在が宗教的存在なのであって、いわばその人間は、ちょうど私たちの体が有機的に機能するように、宗教的に機能するのである。この終極的な存在規定は、そこここでさまざまなかたちをとるようなドグマのみをもっぱらその内容とするのではない。そうではなく、それと名ざすことのできる魂の個々の特性もまた、その内容をなすのである。例えば依存感情、希望の歓び、謙譲とあこがれ、地上的なるものへの無関心、生の統御などがそれである。
もっともこれらすべてはなお、宗教的人間におけるもっとも宗教的なるものではない。これらはいぜんとして、宗教的人間に発したもの、その人間がもつものである。これは芸術的人間がファンタジーや技術的巧妙さを、鋭く研ぎ澄まされた感覚と様式化の力をもっているのとおなじである。ところが芸術家の存在にあって、その人間を芸術家にする実質、それ以上の分解を許さないような統一性をもつ実質は、いわばあらゆるもののしたに隠れているのである。伝統的な理解は、おしなべて人間の宗教性を、「一般的な」エネルギー、すなわち感情や、思考や、倫理的ないし欲動的意志などの結合と変容のなかに見いだす。しかし実際には宗教的な魂の基礎的存在性こそが宗教性なのであって、これこそがいまあげた魂の一般的な、あるいは特殊な諸性質に、色あいとはたらきとをあたえるのである。いわばあとになって(これは時間的先後関係の意味においてではないが)はじめて、この宗教的根本存在は、欲求と充足に分裂する。それはちょうど芸術的存在性が、創造衝動と客体的な作品という形成物との相関において表れるのとおなじである。
こうして欲求充足へのこの分離とともに、宗教的人間の自然な特性としての宗教性に対して、なんらかの宗教的対象が客体として対置されることとなる。・・・}

{・・・フォイエルバッハの思考の歩みは、この地点のわずか手前で脇にそれてしまっている。フォイエルバッハにとって神とは、みずからの必要性にかられて、みずからをみずからのうちから無限性へと高めて、そしてそのようにして成立した神に救助を求める人間のことにほかならない。「宗教とは人間論である」〔『キリスト教の本質』序文に見られるフォイエルバッハのことば。正確には宗教ではなく神学〕。こうした転換によって、フォイエルバッハは超越的なるものにかたをつけたと考えた。なぜなら彼は人間においてただ個々の心的事象の経験的なながれ以上のものを見なかったからである。だがしかし彼はこう考えるべきであった。個別の事象を超える形而上的価値は、人間が宗教的であることそのもののなかにあるのだ、と。・・・}

※ 現代文化の葛藤(抄)(1918)

【五 宗教/宗教性と社会】

※ 宗教(1906/1912)

{・・・人間にとって、おなじことが自分自身に向かいあっても可能であるということは、人間が主体と客体に分裂し、自分自身に対して第三者に対するように向かうことができるという能力による。この能力は、私たちの知るかぎり、世界の他のどのような現象にも類例がないものであり、またこの能力が私たちの精神のありかた全体を基礎づけている。自己と他者と神への信の結果がこのようにたがいに幾重にも類似したものであるということは、たんにこれらが、おなじ心の緊張状態が社会学的対象の違いによってさまざまに外化したものであるにすぎないことによるのである。
この宗教的意義を超えた、どのような純粋に社会的な意義をもっているかについては、これまでまったく探求がなされてこなかった。しかし私は、信仰なくしては私たちの知る社会は成り立たないだろう、と確信している。私たちが、あらゆる証明を超えて、あるいはしばしばあらゆる証明に抗して、ある人間ないし集団への信を堅持するということ、これは社会が関係性をもつための、もっとも強固な紐帯のひとつある。たとえば服従の関係は、非常に多くの場合、他者の権利や優越性についての明瞭な知識にもとづくのでもなければ、愛や暗示にもとづくものでもない。そうではなく、他者の力や業績や抗いがたさや善意に向けられた、あの「信」にもとづくのである。この信はまさにたんなる理論的仮説のような想定なのではなく、まったく固有の、人間間に生成する心的形成物である。この信はまたけっして、それがみずからの対象の価値として表象する個々の性質に向けられるのみではない。それらの性質はどちらかといえば偶然的な内容であって、それらの性質において、他者に向けられた形式的情調と傾向、すなわちその人間への信と呼ばれるものが、自己を対象化し、表明可能となるのである。
この信は、社会的力として、当然ながら他のあらゆる知的・意志的・感情的結合力と結びつくが、その純粋で、それ自身に対してのみ作用するような形態は、神信仰において表れる。それは拡大であり絶対化であって、それによってあの低次の混合した信の表れの内なる信の本質を、いわばはじめて目に見えるものにしてくれるのだ。この神信仰において「あるひとを信じる」というプロセスは、社会的相手から解放され、その対象の内容を自己自身のうちから生みだした。これに対し、その社会的作用においては、このプロセスはすでに異なる秩序において所与となっている対象を見いだすことになる。この信が宗教的となるのはしかし、それが超越的なものに適応することによってではない。そうした適応は、信のひとつの基準であり、表現様式にすぎない。そうではなく、信は、あらかじめ形式上宗教的なのである。自我の束縛と拡張、信自身のうちにある鋭さと盲目さ、自発性と依存性、贈与とその贈与の内に潜む受容〔本書321-322頁参照〕などの綜合によって、信は宗教的地平の一部分をなし、その地平に人間相互の諸関係が投影される。その地平は宗教という名とその一般的な概念を超越的形象から借りるが、しかしけっしてその本質をもっぱら、その地平のなかに描かれ、その構造を確かにもっとも純粋に掲示する超越的形象から借りるわけではないのである。・・・}

{・・・キリスト教の神以外の神々はキリスト教のみならず、世界全体から拒まれなければならない—神とつねに個別的なものにとどまらざるをえない社会的一体性との連帯とは対照的に、このように言明することで、キリスト教はとてつもない転換をもたらした。キリスト教の神はその信徒の神というだけではなく、存在するものの神そのものである。従ってキリスト教には、あの神の所有ということがもつ排他性やせちがらさが欠けているのみならず、逆に当然の結果としてキリスト教は、その神をすべての魂の承認するところとなるよう努めなければならない。なぜならいずれにせよキリスト教の神はすべての魂にとっての神なのであり、すべての魂がキリスト教を信奉するようになることは、すでにある事実をたんに確認するものにすぎないのである。・・・
・・・
他の神がたんなる他者の神ではなく、誤った神、つまりまったく存在しないはずの神であるとき、論理的に言って寛容であることは矛盾となる。これは不寛容が個別主義的宗教にとって矛盾しているのと同様である。当然のことながらここで、まさに神の原理の絶対的な高みと有無を言わさぬ唯一性ということから、あるあらたな寛容が生まれる。すなわち、唯一の一神にいたるはさまざまでありうる、との考えかたである。個別主義的宗教は宗教の終極的内容、すなわち神の概念については、寛容でありうる。しかしその神概念の狭さや親しさと、神との関係の特殊性のゆえに、そこでは神にいたる道が複数あることは認められない。つまり神にはただ、あるまったく特定の供犠や祈りや行動様式によってのみ到達できる。これに対しキリスト教は、宗教の終極性については不寛容だが、神の意にかなう活動や内的状態については、比類のない幅でこれを認めることができる。・・・}

{・・・肝に銘じておかねばならないことだが、宗教現象そのものの精確な発生論的解明を為しえた者などは、これまでだれひとりいなかった。いままで言われてきた宗教の「起源」、すなわち恐れや愛、困窮や自我意識の増長、畏敬の念や依存感情等々には、まさに決定的なものが欠けている。すなわち、一体なぜこれらの経験的な情動が突然宗教的段階へと立ち至ったのか、という問いへの答えである。
さしあたっての、そしてまた実際に適切とも言える答えは、これらの情動のある種の量的昂進がその情動を他の性質へと変容させるのであり、宗教意識のある閾値が存在するのだ、というものである。だが、なぜこのあらたな性質がほかならぬ宗教的なものであるのか、という問いがなお残る。よく見てみると、宗教性はその導出と称するもののうちに、すでにひそかに前提とされている。そうであるならば、あらかじめ宗教性を、第一次的で他から導出できない性質として認めたほうがいい。この前提のもとに、さきにあげた宗教性の起源と言われるものとの関係もおそらくより納得のゆく意味をもつ。すなわちこれらすべての要因は—もちろん漠然とした無原則な表現だが—、心性の特定の質的な過程のながれにある種の方向性と律動と綜合をあたえる形式的な緊張状態であり、まったく一般的な心性の運動様態であると思われる。もちろん—これについてはここでは暗示するにとどめなければならないが—それらすべての要因、すなわち愛や恐れ、依存と帰依等々はなおいわばあまりに質料的に過ぎるのであって、あの心理学の論理にならって心的構造を概念によって理念の地平へと投影するためには、なお一層一般的で純粋に機能的な根本的動性と内的な根本関係を把握する必要がある。これらは、特定の感情や運命や関心が推移するさいの様態、例えば宗教的か社会的か、あるいは芸術的か倫理的か、を規定するであろう。そうした、なお心理学的な定式化のなされてない心的な現実存在一般の集中と緩和において、その存在の音律の律動的転換、憧憬や失望や抵抗や均衡の一般的動態の転換においても、私たちはもちろんなおあの大いなるカテゴリーの起源に接してはいないだろう。本論の冒頭で述べたように、この大いなるカテゴリーは、それぞれひとつの世界を創りだす力をもっている。とはいえ私たちは、そのようにしてでき上がった諸世界の現実的・理念的な関係については把握するだろう。ひとつのカテゴリーが他のカテゴリーからの影響にふれて示す同様の法則的経過や先行形成については、本論で特定領域の例についてわずかながら示した通りである。・・・}

解説
訳者あとがき

 

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