March 30, 2024

ジンメル『愛の断想・日々の断想』

HMVネット購入。2024年2月18日注文。遺稿の抜粋だからか、普通の警句・箴言のような一読して「お、うまいこというね」みたいなのは一つもない。それどころか何言ってるのか不明の文章がやたら多い(笑)。宗教論集読んだあとなので、著者の思考はある程度はわかるつもりだが、それでもほぼ理解不能な文章が半分以上を占める。愛や神は反知性としてしか表現できないのか?いや、これは反知性というよりは反言語。人間は矛盾に満ちた存在だということを体を張って実証してみせた一品かもしれん。。。翻訳に問題ある部分もあるだろうが、それはたいていの翻訳につきものだ。

書名:愛の断想・日々の断想
著者:ゲオルク・ジンメル
訳者:清水幾太郎
出版:岩波文庫(1980年4月第1刷)

《目次》

凡例

愛の断想

日々の断想

あとがき(清水幾太郎)

 

| | Comments (0)

March 26, 2024

石井寛治『資本主義日本の地域構造』

HMVネット購入。2022年6月7日注文。

書名:資本主義日本の地域構造
著者:石井寛治
出版:東京大学出版会(2018年2月初版)

《目次》

序章 近代日本の地域経済構造の考察

【第I部 地域史と全体史をつなぐ】

第一章 産業革命論――民衆生活の視点から

1 研究史の現状
/研究の進展/研究の総括/産業革命と市民革命/産業革命と自己認識/

2 一国史と地方史
/民衆生活の究明/近代地方史研究の課題/地帯構造論/資本・賃労働の地域性/消費生活の地域性/

3 国家財政と民衆
/研究史の現状/国家財政と政商=財閥/国家権力と民衆/

4 欧米・アジアとの関連
/民衆生活と世界市場/商品輸出入/資本輸出入/労働力移動/

おわりに

第二章 地域経済の変化――資本制部門の分散から集中へ

1 対象と方法

2 産業資本確立期の地域経済

3 戦時経済体制下の地域経済

4 総括

第三章 国内市場の形成と展開――商品流通の視点から

1 課題と方法
/1.研究史の現状/2.究明すべき課題/

2 国内市場の諸段階
/1.段階規定の基準/2.商品流通と輸送手段/3.地域経済の変化/

3 商品流通の概況
//1.米穀/2.醤油/3.砂糖/4.肥料/5.石炭/6.鉄鋼/7.小括/

第四章 織物集散地と織物問屋のランキング

1 織物集散地の実態

2 織物問屋のランキング

第五章 商業会議所の性格と会員資格の格差

1 商業会議所メンバーは商人だけなのか

2 各地商業会議所は、どの階層のブルジョアジーを代表していたのか

第六章 中央銀行の制度と機能――フランスとの対比

1 日本銀行の制度的特徴

2 日本銀行の店舗政策

3 日本銀行の商業金融と産業金融
/綿糸紡績業/生糸製紙業/鉄道・海運業/

4 横浜正金銀行への低利融資

おわりに

第七章 昭和恐慌における階層別打撃

1 問題の所在

2 個人株主と法人株主の比重の推移

3 階層別に見た打撃の深度(1)—個人所得税統計から

4 階層別に見た打撃の深度(2)—金満家大番付から

結語

【第II部 地域史から見た全体史】

第八章 明治経済史再考――多摩「シルクロード」の人々

1 多摩地域は攘夷思想の温床と言えるのか

2 多摩の「シルクロード」とは何だったのか

3 外資に頼った萩原器械製糸場の発展と挫折

4 外資排除路線を突き破った玉製紙業—結びに代えて

第九章 日本近代史上の上方経済―その役割の再評価

はじめに

1 近代日本の地域経済の変遷

2 近世の上方経済から近代の綿工業センターへ

{・・・1868年当時の両替商の記録や書状を読むと、連続倒産が起こったのは五月でなく一月であり、そのきっかけは京都から大坂に進駐した官軍兵士が幕府や会津藩などの資金を預かっていた両替商のところに押しかけて、それらの預かり金を戦利品として分捕ったためであることが判明しました。1月12日付けの三井大坂両替店の書状によれば、約1万5000両の幕府公金を薩摩藩兵士に差し出し、領収書を求めたところ拒否されたそうです。三井の場合は、資金の余裕があったために潰れませんでしたが、炭屋安兵衛らは資金ショートを起こして倒産しました。つまり、大坂両替商の倒産は、明治政府の近代化政策について行けなかった古い体質のためではなく、遅れた薩摩・長州からやってきた官軍が高度に発達した大阪の信用経済を暴力的に破壊したためだったのです。・・・}

3 「東洋のマンチェスター」としての「大大阪」

おわりに

第一〇章 再考・維新経済史――四国松山から

1 攘夷論と開国論の対立を超える道

2 「商人的対応」による投資資金の蓄積

{・・・ここで、「商人的対応」という耳慣れない用語について一言説明しておきます。これは、外国からの自由貿易の要求に誰がどう「対応」し、のちに近代的工業化のために投資したかについて、「対応」の主体が国家なのか民衆なのか、それともその中間の商人なのかを区別する際の用語です。・・・幕末の居留地貿易では、日本商人が国内での貿易品の流通を担当することによって、もっとも多くの利益を蓄積し、明治期の産業革命では、商人が工業化のための資金をもっとも多く提供しますが、それは、「商人的対応」が成功したことを意味します。・・・}

3 商人による産業投資と対外投資

4 愛媛県における近代的工業化—綿ネル業と製糸業

終章 結語と展望

あとがき

〔附録 昭和初期の大資産家名簿〕

図表一覧
索引

| | Comments (0)

March 21, 2024

ヒッティ『アラブの歴史(上)』

この本は1979-80年頃に買ったのかな、たぶん。

書名:アラブの歴史(上)
著者:フィリップ・K・ヒッティ
訳者:岩永博
出版:講談社学術文庫(1977年12月第1刷)

《目次》

訳者序文
著者序文(第10版~第1版)
凡例

【第1篇 イスラム前のアラビア】

1章 セム人としてのアラビア人――セム人種の揺籠だったアラビア

1 関心をもつ必要

2 近代の探検

3 人種学的関連—セム人

4 セム人種の揺籃の地アラビア

2章 アラビア半島

1 舞台の設定

2 気候状態

3 植物
/なつめ椰子/

4 動物
/アラビア馬/らくだ/

3章 ベドウィーンの生活

1 遊牧民
/ラッジア〔掠奪〕/信仰心/

2 氏族
/アサービア/シェイク/

4章 古代の国際関係

1 南アラビア人

2 エジプトの関係
/シナイ半島の銅山/乳香/

3 シュメール人およびバビロニア人との関係

4 アッシリア人の侵入

5 新バビロニアとペルシアとの関係—タイマー

6 ヘブライ人との接触
バイブルとの結びつき—『旧約聖書』の言及/

7 古典文献中で
/ローマの遠征/香料の地/金/

5章 南アラビアのサバエ国とその他の国々

1 商人としての南アラビア人

2 南アラビアの碑文

3 サバエ王国
/マァリブのダム/

4 ミネア王国

5 カタバーンとハドラマウト

6 ヒムヤル王国
/アビシニア人のセム人種起源/グムダーンの城/ローマ人がアラビア人の海上貿易にとって代わる/

7 第二次ヒムヤル王国
/ヤマンにおけるキリスト教とユダヤ教/アビシニアの支配時代/マァリブ-ダムの決潰/つぎのペルシア時代/

6章 ナバタエ王国と北方・中央アラビアの小王国

1 ナバタエ人
/アルファベットのシナイ語起源/

2 パルミラ
/オダイナスとゼノビア/

3 ガッサーン族
/極盛期のシリア・アラブ王国/アル=ハーリスの子アル=ムンデル/バヌ₋ガッサーンの没落/

4 ラフム族
/権力の絶頂時のアル‐ヒーラ/キリスト教に帰依した王族/

5 キンダ族

7章 イスラム発生前夜のアル-ヒジャーズ

1 ジャヒリーヤ時代
/アラビア人の時代/バスースの戦い/ダーヒスの日/

2 言語的影響を残した北アラビア語
{おそらく世界中で、アラビア人ほど、文学的表現を熱烈に賞讃したり、口語にしろ文語にしろ言葉によって心をかきたてられる民族はないだろう。アラビア語ほど用いる者の心に抑えがたい感銘を与える言葉はまずなかろう。・・・}
/英雄時代/詩歌/古典時代の長詩/ムアッラカート/イスラム以前の詩歌/詩の顕すベドウィーンの性格/

3 ベドウィーンの異教性
/太陽的崇拝諸側面/ジン/アッラーの娘たち/マッカーのカァバ/アッラー/

4 アル-ヒジャーズの三都市
/アル-ターイフ/マッカ/アル-マディーナ/

5 アル-ヒジャーズに対する文化的影響
/サバエ人アビシニア/ペルシア/ガッサーン国/ユダヤ教徒/要約/

【第2篇 イスラムの勃興とカリフの国家】

8章 ムハンマド、アッラーの予言者

9章 アッラーの書「コーラン」

10章 イスラム、アッラーの意志に服従する宗教

1 教理と信仰

2 五つの柱
/信仰の告白/礼拝/喜捨/断食/巡礼/

3 聖戦

11章 征服、膨張、移住の時代――632-61年

1 カリフ権問題
/正統カリフ—長老時代/

2 アラビア、自らの征服者

3 膨張の経済的原因

12章 シリア征服

1 ムハンマド時代の侵攻

2 イラク、シリアへの派兵

3 ハーリドの奇跡的進軍

4 ヤルムークの決戦

5 新領土の行政

13章 アル-イラークとペルシアの征服

14章 エジプト、トリポリ、バルカの獲得

/アレクサンドリアの図書館/

15章 新領土の経営

1 ウマルの法令

2 軍隊

3 いわゆるアラブ文明

4 正統カリフ政権の性格と業績

16章 アリとムアーウィヤのカリフ権争奪戦

1 選挙制カリフ

2 アリのカリフ時代

3 大カリフたちの時代

4 カリフ制、主として政治的職務であるもの

【第3篇 ウマイヤ朝・アッバース朝帝国】

17章 ウマイヤ朝カリフ政権、ムアーウィヤの王朝建設

1 カリフ位の要求者の処分

2 典型的アラビア人君主だったムアーウィヤ

18章 ビザンツ人との敵対関係

1 マルダイ教徒

19章 ウマイヤ朝勢力の絶頂期

1 精力的な太守、アル=ハッジャージュ

2 ”河の彼方”の征服

3 インドの征服

4 ビザンツ人との戦い

5 北アフリカと南西ヨーロッパの征服

6 国の民族化

7 財政その他の改革

8 建築記念物

20章 ウマイヤ朝治下の政治行政と社会状態

1 行政機構

2 軍事組織

3 宮廷生活

4 首都

5 社会
/新改宗従属民/ズィンミー〔非保護民〕/奴隷/

6 アル-マディーナとマッカ

21章 ウマイヤ朝治下の知的諸相

1 アル-バスラとアル-クーファ
/アラビア語の文法/

2 宗教的伝承と宗教法
/歴史記述/ダマスクスの聖ヨハネ/ムルジー派/シーア派/

3 雄弁家
/書簡/詩歌/教育/科学/錬金術/

4 建築
/アル-マディーナのモスク/諸州の初期のモスク/岩のドーム/アクサ‐モスク/ウマイヤード‐モスク/

5 宮殿—クサイル‐アムラ

6 絵画

7 音楽

22章 ウマイヤ朝の衰退と崩壊

1 カイス族とヤマン族の対立

2 継承問題
/アリ派/アッバース家のカリフ権要求者/フラーサーン人/

3 決定的打撃

23章 アッバース朝の樹立

1 アッバース朝の実質的始祖、アル=マンスール

2 マディーナト‐アル‐サラーム〔平安の都〕

3 ペルシア人の宰相一家

24章 アッバース朝の黄金時代

1 フランク族との関係

2 バグダードの栄光

3 知的覚醒
/インド/ペルシア/ヘレニズム/

4 翻訳家
/フナイン=イブン=イスハーク/サービト=イブン=クッラ/翻訳時代の役割/

25章 アッバース朝政府

1 アッバース朝カリフ
/ヴィジール〔宰相〕/徴税庁/

2 その他の政府部局
/司法行政/

3 軍事組織

4 知事

26章 アッバース朝社会

1 アラブ人と外国人

2 家庭生活
/家具と食物/飲酒/浴場/娯楽/奴隷/

3 経済生活
/商業/工業/農業/

4 ズィンミー〔非イスラム教徒保護民〕
/キリスト教徒/ネストリウス教徒/ユダヤ教徒/サービー教徒/マギ教徒/

5 帝国のイスラム化
/アラビア語の征服/

| | Comments (0)

March 07, 2024

中村元『原始仏典』

HMVネット購入。2023年12月14日注文。


書名:原始仏典
著者:中村元
出版:ちくま学芸文庫(2011年3月第1刷)


《目次》


はしがき


≪Ⅰ 釈尊の生涯≫


序章 原始仏典へのいとぐち


1 原始仏教の成立
/原始仏教成立の時代背景/都市の成立/新しい思想家たちの輩出/ゴータマ・ブッダの出現/ダルマ(法)/実践の原理/慈悲の精神/


2 経典の成り立ち
/釈尊の生涯/経典の成立/


3 原始仏教の聖典
/阿含経と原始仏教/原始仏教聖典/


4 仏教経典の現代性
/西洋の伝統と東洋の伝統/仏教間の変遷/近年の仏教観/原始仏教の時代と現代/


5 現代語訳の意義
/仏典の言語/民衆のことば/
{少し話が脱線するかもしれませんが、禅の語録についても同じことがいえます。禅の語録というのは民衆のことばです。いわば妙な漢文なのです。孔子さま、孟子さまの古典的な漢文ではないわけです。つまり反逆をしたのです。反逆をして民衆のことばで話す。昔からの学問伝統などに頼らないというのです。一つには、禅宗は唐末五代の乱でお経は全部焼けてしまい、お寺はこわされ、お坊さんもだんだん学問がなくなったという、そういう歴史的事情はあるかと思いますが、学問的伝統にとらわれないという立場があったのです。だから民衆のことばで書いた。そこで禅宗の精神をいまの日本語になおすということになると、そういう伝承にとらわれないで書くべきで、そうでなければ禅の心髄は生かされてきません。禅の言語は、つまりその当時のヒッピー用語です。ですからそれぞれの国の民衆のことばで訳したらいいわけなのです。・・・}
/現代語訳の意味/


6 原始仏典の時代史的意義
/因習を超えて/苦行/内心の清らかさ/インドのみそぎ、沐浴/形而上学的論議への批判/毒矢のたとえ/人生は苦である/「中道」を尊ぶ立場/全部を見きわめる仏教の立場/


第一章 誕生と求道—『スッタニパータ』(1)


1 『スッタニパータ』について


2 誕生
/神々の喜び/仙人のことば/聖者の境地/


3 出家
/修行者としての道/ビンビサーラ王との出会い/ビンビサーラ王との会話/


4 降魔
/悪魔の誘惑/黒き魔の攻撃軍/悪魔の敗北宣言/


第二章 悪魔の誘惑—『サンユッタ・ニカーヤ』(1)


1 蛇の誘惑
/『サンユッタ・ニカーヤ』について/蛇の誘惑/理想的な修行者/


2 娘たちの誘惑
/愛執・不快・快楽/釈尊の境地/


3 梵天の懇請
/釈尊の省察/梵天の懇請/子のかたちをした悪鬼/


第三章 最後の旅—『大パリニッバーナ経』


1 旅立ちまで
/『大パリニッバーナ経』について/国王の命令/鷲の峰/釈尊の答え/ヴァッジ人の繁栄/七つの教え/


2 最後の旅路
/釈尊の最後の旅/ナーランダー/パータリプトラ/
{・・・ナーランダーに仏教寺院が造られたのは非常に早く、五世紀ごろには存在しており、やがて学問、研究の中心として栄えるのです。玄奘三蔵などもそこに長くとどまったということです。そしてその時代には、アジア諸国から一万人以上の留学生がいたということです。これが五世紀あたりから始まって、七世紀、八世紀と栄えたわけで・・・}
{・・・このナーランダーで研究された仏教哲学は中国を経て、法相(ほっそう)宗として京都の清水寺、奈良の薬師寺、興福寺、法隆寺などに伝えられました。
インドで生まれ、インドではぐくまれた仏教はこうして世界中に広がっていきました。しかしインドでは次第にヒンドゥー世界に近づき吸収されてゆき、十二世紀のイスラム信仰によって、その姿を消していったのです。・・・}
/ガンジス河を渡る/ヴェーサリー/商業都市と共和制/遊女アンバパーリー/旅に病む/自己にたよれ/自己の追求/この世の美しさ/死別の告知/パーヴァー/人間釈尊/


3 臨終
/クシナーラー/アーナンダの号泣/一生の回顧/最後のことば/


第四章 仏弟子の告白・尼僧の告白—『テーラガーター』『テーリーガーター』


1 仏弟子の告白/
『テーラガーター』の成立と内容/スニータ長老の告白/サーリプッタの覚悟/


2 尼僧の告白
/キサー・ゴータミー尼の告白/チャンダー尼の告白/アッダカーシー尼の告白/遊女アンバパーリーの告白/イシダーシー尼の告白/


≪Ⅱ 人生の指針≫


【第一部 人生の指針】


第一章 ブッダのことば—『スッタニパータ』(2)


1 真理について
/思想の混乱/部分的真理性/生きる道の追究/非我を我と見る/死を超える道/


2 慈悲について
/慈しみの経/足るを知る/慈悲の精神/すべてのものの幸せ/


3 解脱について
/究極の境地/学生ヘーマガの質問/学生トーデイヤの質問/学生ピンギヤの質問/


4 幸福について
/こよなき幸せ/諸々の教え/


第二章 真理のことば—『ダンマパダ』


1 『ダンマパダ』の成立とその意義
/真理のことば/異本について/


2 『ダンマパダ』のことば
/最初のことば/つとめ励むこと/心について/花にちなんで/愚かな者/真理を喜ぶ人/とらわれない境地/数にちなんで/悪について/老いについて/自らを尊ぶ立場/めざめた人/さまざまな教え/人生の真実相—「無常」と「苦」/主体性の確立/


第三章 生きる心がまえ—『サンユッタ・ニカーヤ』(2)


1 生きる心がまえ
/もの惜しみ/施与の功徳/無一物の境地/


2 他とのかかわり
/他人の立場で/他人との関係/よいことば/


3 無我の心境
/非我説/禅定/


第四章 人間関係—『シンガーラへの教え』


1 個別的な人間関係
/『シンガーラへの教え』とその内容/六つの方角の礼拝/父母と子の関係/師と弟子の関係/夫と妻の関係/友人・朋輩との関係/主人と奴僕・傭人の関係/修行者・バラモンとの関係/


2 まもるべき教え
/十四の罪悪からの解脱/四つの行為の汚れ/悪い行いをしない四つのしかた/財を散ずる六つの門戸/酒を飲むなかれ/四種の敵/親友/蓄財/四つの愛護/


第五章 ジャータカ物語


1「ジャータカ」の成立とその意義
/「ジャータカ」の成立/具体をもって教化するジャータカ/


2 ジャータカ物語
/シビ王本生譚/さまざまな物語/真理を寓する/


【第二部 後世における発展】


第六章 アショーカ王のことば—『岩石詔勅』


1 アショーカ王の時代と岩石詔勅
/マウリヤ王朝の統一/アショーカ王と詔勅文/詔勅文の解読/


2 アショーカ王のことば
/理想を説く/アショーカ王の悔恨/法による勝利/遍きものへの慈悲/すべての宗教の承認/現代における意義/


第七章 ギリシア思想との対決—『ミリンダ王の問い』


1 『ミリンダ王の問い』の成立とその意義
/ミリンダ王登場の背景/ミリンダ王と仏教/『ミリンダ王の問い』の成立/


2 ナーガセーナとの対話
/霊魂観/名前の問い/車のたとえ/実体の否定/仏教における「無我」/対話の成立する基盤/究極の理想の境地/解脱/念仏/


解説 文献をして真実を語らしめよ(宮元啓一)

| | Comments (0)

February 29, 2024

中村秀生『韓国貯蓄銀行再建日記』

HMVネット購入。2024年2月18日注文。


書名:韓国貯蓄銀行再建日記 日本人が外国で不良企業の立て直しに挑んだ3年余りの記録
著者:中村秀生
出版:プレジデント社(2023年10月第1刷)


《目次》


はじめに


第1章 波乱 2013年2月~8月


▽東京での顔合わせ
▽初めてのソウル出張
▽香港からの帰任
▽赴任前の実態把握
▽マネジメントの決断
▽ソウル着任、第1回資本注入
▽会計のダブルスタンダード
▽役員選任と就任式
▽常務会とリスク管理委員会
▽与信審査体制の構築
▽資産査定検査、経営理念の作成
▽貸出営業の立て直し
▽リテールの問題と法人貸し出しの問題
▽経営改善計画
▽最初の連結決算、経営改善計画の承認


第2章 混迷 2013年9月~12月


▽役員人事と社名変更
▽新社長の力量
▽広告宣伝の再開、四半期決算
▽ワークショップ、審査部の体制
▽IBの快進撃と法人貸出の復活
▽不振が続くリテール
▽ソウルでの生活
▽NPLへの傾注、広告戦略
▽第3回資本注入、人事制度の正常化


第3章 再起 2014年1月~12月


▽333キャンペーン
▽本支店活性化
▽副社長の辞任
▽独自資金調達
▽のれん減損テスト
▽新副社長と清水さんの帰任
▽経営改善命令からの脱却
▽リテール再稼働
▽第5回資本注入
▽利権争いとの戦い
▽重要施策の推進
▽法人貸出の挑戦
▽セカンドファイナンス
▽2014年6月期決算
▽4行合併の推進、本支店移転と新設
▽債権管理本部長の交代
▽4行合併式と本社移転
▽審査の成果と貸出の増勢、単月黒字
▽釜山慶南地域支店開設の挫折
▽2015年の三つの目標


第4章 転機 2015年1月~9月


▽オートローンとPF貸出
▽全本支店の訪問
▽攻めへの転換

▽国税調査、消滅時効成立債権の売却
▽グループ会社への検察強制捜査
▽社長就任
▽新米社長
▽通期黒字の達成
▽ボーナスの復活
▽社長メッセージ、不動産金融事業部の創設
▽NPL問題
▽横領事件


第5章 有終 2015年10月~2016年3月


▽労使協調、インターネット銀行とフィンテック
▽Mプロジェクト
▽固定以下与信比率の低減
▽社会貢献活動
▽2015年の総括と、2016年の三つの目標
▽2015年12月期決算
▽過去最高益更新への挑戦
▽帰任命令
▽別れの挨拶
▽機上から見た漢江


エピローグ


おわりに


 

| | Comments (0)

February 24, 2024

貝原益軒『養生訓・和俗童子訓』

1980-81頃、名大生協で購入したもよう。

書名:養生訓・和俗童子訓
著者:貝原益軒
校訂:石川謙
出版:岩波文庫(1961年1月第1刷)

《目次》

凡例

【養生訓】

巻第一 総論 上

/天地・父母の一環としてのこの身。人身は貴くして天下四海にもかえがたし/養生の術を行なうことの効果/養生の術を早くより継続してつとめよ/内慾をおさえ外邪をふせぐ/内慾をつつしむ具体的条件/不養生はなしくずしの自殺行為/人の命は我にあり、天にあらず/外物によって養われる身ながら、外物によって侵されるな/養生の術の第一は心気を養うことである/耳目口体の慾を抑えよ/四つの外邪を防ぐ途は要慎/養生の要訣は畏の一字/養生を害するもの—過度と安逸/心は静かにし、身はいそがしくせよ/治療の術を頼むよりも、病にかからぬ要慎をせよ/薬・針・灸などを用いず、養生の途を守って、健康を保て/運動して健康を増進しておくこと/人生は百歳を以て上寿とする/真に人生を味うには長生が必要/内敵に克つには勇、外敵に勝つには畏/元気を保つ道二つ。元気を害するものを去る、元気を養う/人生の三楽—心に疚しいところがない、健康、長寿/天寿を全うせよ/四民ともに家業をよく勤めるが養生の術/養生の術は学ばなければ得られぬ/家業精励の中に養生がある/常時に養生するは一旦緩急の際に勇戦するためである/睡眠時間を短くせよ/言葉を少なくすることの効用についての医学的意味/小さい不養生から大病を引きおこす/命の長短は、養生すると、しないとによって決まる。富貴は求めて得られぬ場合がある。健康長命は求めれば得られる/血気流行して滞らぬようにするが養生の途/心に主たるものあるべし/忍ぶ、が養生の要諦/未病を治するの法/用心は臆病にせよ/寡慾が養生の原則/気を一所に滞らせてはならぬ/俗人・仙術家・陋儒の弊/

巻第二 総論 下

/朝の行事と食後の養生法/静かに労働せよ/怠らず労働するのが養生の途/「久しく」するな/臥して寝る時間と回数とを少なくせよ/昼寝と食後の臥寝とを避けよ/何物をも恃んではならぬ/小慾を貪りて大切な体を破るは愚/心を安らかにし身を労せしめよ/恣なれば短命、忍べば長命/予め防ぐことの必要/人慾をほしいままに楽しむな/元気を養うことを努めよ/慎しみは長寿の本/瞬間の快楽を求めるな/養生法の要項/飲食は身を養い、臥寝は気を養うものであるが、少きを可とする/道を楽しむ者は命長し/心を平らかにし、言を少くせよ/山中の人の命長き理由/貧賤に居て、貧賤を楽しむ/忍ぶは養生の要領/胃の気を養う/荘子のいわゆる庖丁が牛を解くの譬え/元気を害するもの/心を静かに保つ/つばきを吐くな/つばきは呑むべし、痰は吐くべし/病質・病勢に応じる治術を用いよ/善きことも悪しきことも習い性となる/わが力相応のことをせよ/若い時から勉めて元気を養え/気を費やすのみ吝嗇であれ/自ら欺くこと勿れ/放奔な欲望生活は自殺行為である/ことの十分を求めるな/養生の効果を真に知れば、養生せずには居られぬ/楽しみを失わざるは養生の本/畏・慎は長命の基/満ち足ることは憂いの始まり/瞬時を忍ばずして一生を誤る/中を守れ/言葉を少くせよ/元気を保つこととめぐらすこと/大風雨と雷とを畏れよ/客となって滞座するな/百病みな気より生ず/真気を丹田にあつめる/七情の統制と養生/養生の要訣としての十二少/養生四項/気を養うの法/養生法としての詠歌・舞踏/養生の四寡/摂生の七養/修養の五宜/久しく一つ状態を続けるは不可/養生の四要/四損/老人の痰/呼吸は人の生気/呼吸の仕方/ゆるやかに呼吸せよ/調息の法/心の養生と身の養生とは一体/夜ふかしを避けよ/居室を清潔にせよ/陰陽秉衡論/

巻第三 飲食 上

/元気は生命の本、飲食は生命の養い/病いは口より入る/聖人の飲食の法/暖かきものを飲食し冷飲・熱飲を避けよ/飯の種々な炊き方と健康度との関係/淡薄なる物を食べよ、肉は少量がよい/飲食とも控え目にせよ/飽食をさけよ/五味偏勝は不可/身を養うに益あるものを選べ/飯は多食するな。多食を避けるについての心がけ/口腹の慾にひかれて健康を失うな/深更に夜食してはならぬ/控えすごすと思うほどで丁度適量/飲食は節にすぐべからず/飲食は七・八分程度でやめよ/多食と消化剤とを用いて、腹中を戦場にしてはならぬ/食する時の五恩—益軒の創めた説/晩食はあっさりした物を軽くとる/腐敗した物を食わず、時季はずれの物を食わぬ/副食物は少量でよい/肉類は穀類より少量に用いよ/老人は特に飲食の量をつつしめ/交友の宴にも控え目に飲食せよ/持病に対する食衛生をかたく守れ/傷食の時は断食するも可/未消化の時は食事を一回ぬくがよい/煮足らざるも、煮すぎたるも消化しがたし/あえしお、当を得なければ食うな/中年以後、食量を減ぜよ/新鮮なものを食べよ/好きなものを少し食べよ/食うべきものの五標準/衰病の者への滋養物/衰病者に適する生魚の調理法/魚類・野菜の調理法/鮮魚は滋養が多い/脂の多い魚を食べてはならない/老人・病人は鮨を食うな/肉食は少な目にせよ/生魚の塩漬は食べてよい/味噌は可、たまり・醤油は泄・瀉の人には不可/野菜・菌類・海草の調理法/食い気のしないものを食べるな/飲食はこらえて少量に止めよ/脾胃の好む十一種目の物/脾胃の嫌う十三種目の物/暴飲・暴食すれば胃の気がへり短命に終る/湯・茶・羹を多く飲むな/酒食したのちの注意/食後には軽い運動をせよ/虚弱の人は餅・団子を遠慮せよ/薬酒を少しずつ呑むは可/肉・菓は少量摂取しただけで賞味しうる/濁った水、悪水のまじった水を飲むな/雨水・雪解けの水は飲んでよい/半沸の湯を飲むな/小食のよい理由/食後、にわかに患らいたる時の手当/前食の消化しない中に飲食してはならぬ/暖かなものを飲食せよ/冷飲・冷食を避けよ/食後に口をすすぐこと/他郷に出て飲食する時の心得/山中の人が長命で、海辺の人が短命な理由/朝早く温かい粥をたべる/香辛料の用い方/副食物を少な目にして飯を味え/臥にのぞんで食滞した場合の注意/点心は食わぬがよい/晩食は朝食より少量にすべし/食してよい物、悪い物/饗席では食量をつつしめ/食後に激しい運動をしてはならぬ/

巻第四 飲食 下

/倹約・養生の合致/朝夕一飣のみですませた実例/松蕈・筍は一緒にでなく、単独に煮るがよい/餅・団子の食べ方/朝食と晩食との関係/新鮮な品を用いよ/欝滞せる食品を使用するな/陰物を食うな/瓜をたべる時季/灸餅・あぶり肉の食べ方/茄子の食べ方/大根・人参・芋などを胃弱者に与える調理法/大根は野菜中の上々品/菜の調理法と食べる季節/果物の食べ方/病症の如何と禁宜の食物/豆腐の食べ方/前食・後食の関係/服薬中は味うすき物を食べよ/芋・くわい・人参など甘き菜の食べ方/薑(はじかみ)を食べてならぬ時季/豆腐・こんにゃくなど醤油で煮た物の、冷えたのは食うな/腹鳴りのする時、食べてならぬ物/酔の残る内に食べてならぬもの/鳥獣の肉の調理法/「こつとつこう」の食用価値/熟せざる果物を食うな/心に動揺ある時には食うな/前食と後食との関係…三度目/夜食の分量をさし控える工夫/湯茶をしばしば飲むな/日本は中華人より体気が弱い/空腹に生菓を食うな/疲労はなはだしき時には食を控えよ/多飲・多食は夭死の基/病人しいて欲する場合には、噛んで味わって吐き出させよ/多く食べてはならぬ物/老人・虚弱者の食ってならぬ品々/一般人の食ってならぬ品々/食養生/同食の禁忌/服薬中には食物の禁忌がある/園菜は十分に洗い清めて後、食用にせよ/

-飲酒

/飲酒の量によって、薬とも毒ともなる/多飲を戒しむ/酒は朝夕の飯後に飲むがよい/冷飲・熱飲を避けて、温酒を用いよ/温めなおした酒を飲むな/客に酒を強いてはならぬ/醇酒を少量に愛用せよ/長命は酒を飲まぬ人に多い/飲酒とともに摂取してはならぬもの/焼酒を呑む心得/

-飲茶 煙草附

/養生上から見た茶の効用と害/茶の人体に及ぼす作用/茶は少量に用いよ/茶にも薬にも水を選べ/茶を煎ずる法/奈良茶を食べる習俗/煙草は害が多い/

-慎色慾

/色慾を恣にすれば短命に終る/交接の回数と年齢との関係/若き時、特に情慾をつつしめ/二十歳以前は交接せぬがよい/房中補益説/情慾と腎気との関係/房事を忌む場所と時期/小便をしのんで房事をしてはならぬ/懐胎してのち交合してはならぬ/腎は五臓の本、脾は滋養の源/

巻第五 五官

/五官は心の家臣/居室は南向きがよい/東枕にして寝ること/正坐・安坐・牀几に腰をかける/居室も家具も質素にして、心の安静をはかるがよい/臥し寝る時の姿勢/寝る姿勢と衛生/灯を消し、口を閉じて寝よ/寝る前に体の各所を按摩すること/導引の効用/導引の具体的な仕方/脛・足の甲・足の指の導引法/導引・按摩を、してはならぬ場合/髪は度々くしけずり、歯はしばしば叩くがよい/夙夜におきて、足の指を、さすり撫でる/腎臓のあたり、足の裏をなで、さする/寝る前に塩茶でうがいをせよ/用のない時は、軽く目をとじている/四十歳以上の人は、ぬるい”こたつ”に入ってもよい/厚く着、熱い火にあたり、熱い湯を浴してはならぬ/久しく坐して、しびれのきれぬ法/頭辺に火炉をおくな/薄着で風寒にあった際の心得/四十歳以上は眼鏡を用いよ/朝の衛生行事—益軒、八十三歳で目と歯とが丈夫/歯の衛生/堅いものを食してはならない/牙杖の用いかた/臥床の中で風にあたらぬようにせよ/熱湯で口をすすぐな/食後の衛生行事、その一/同、その二/つねには七竅をとじていること/寝こたつの使用法/

 -二便

/二便とも、催さば早く通ぜよ/大便秘結する場合の措置/日月・神廟に向って大小便をするな/

-洗浴

/湯浴は十日に一度、行水は、しばしばせよ/熱湯に浴するな/沐浴の回数/温湯に、短時間、入浴せよ/食前の入浴は不可/熱すぎぬ温湯で浴するがよい/下痢・腹痛を治めるに温浴は有効/小瘡の者、熱湯に浴するのは危険/入浴後は、風にあたらぬようにせよ/経水の時、頭を洗ってはならない/湯治は、外症によく効き、内症には効験がうすい/湯治中、湯治後の衛生/海水を汲んで浴する時の心得/汲湯の効用/

巻第六 慎病

/病気にかからぬ用心が必要/当座の小慾のために病気を招いてはならぬ/病いやや癒えた時、一層用心して養生せよ/一時の快をむさぼってはならない/終りを慎むことを、始めにおいてせよ/内慾をおさえ、外邪を防ぐ用心を怠るな/病気の時は、養生の道を守って、しずかに回復を待て/あせらずに癒ゆるを待て/居室・寝室については、外邪、特に湿気を注意せよ/外邪を防がぬと傷寒にかかる/中風は下戸に少く、上戸に多い/春は余寒に注意し、適度に運動せよ/夏は食事を控え目にし、生冷を求めないように努めよ/四月(陰暦)中における健康上の注意/夏月、もっとも養生に注意せよ/夏月、養生のために用いる薬/古井戸に入るについての用心/秋は風邪におかされぬよう用心せよ/冬は暖をとりすぎぬよう、衣服にも暖房にも注意せよ/冬至の日の謹慎/冬月、針・灸・按摩を忌む/除日・除夜の行事/熱食して汗が出た場合の注意/負傷した者に対する手当法/寒中、遠行する場合の用心/甚だ冷えた体を、急に暖めてはならぬ/頓死・暴死にならぬ心掛け/神怪・奇異に迷うな/

-択医

/良医を択んで体を托せよ/才能と技術と仁心とのあるものが医を志すべし、世襲は不可/儒学の力、易の理を知れば、医学・医道を知り易い/良医と福医・時医/医道を精思して、治療にたけたるを良医とする/君子医と小人医/医者となっては、わが利養を忘れて、治病に専念せよ/医師は医術の工夫に専念せよ/自ら医術を心得て、医の良庸を識別せよ/医学十年、病功十年の労を積んで良医となる/俗医・草医は深い病根を見きわめない/医師たるものの本分/庸医に誤られて死ぬは愚/博きと精しきとは、医を学ぶの要訣/国字の医書のみでは、深く医学の原理を知ることができない/医学せずして、医術上手な医者はない/医者は病気に立ち向かうだけでなく、病人という人に立ち向かって治療せよ/古方を知り、風土・民俗を考えて治療の術を工夫せよ/投薬・治療の適中と偶中/医者は世俗の名利を求めるな/医も儒者の一事/読むべき医書三十五部の名/千金方は養生の書として秀逸/日本における医書刊行の沿革/医書講読における自主的・批判的態度の必要/諸医書の長短を知った上での併用/他の医者をそしってはならぬ/薬の用い方/医術上の三要/医師の見たてと服薬/

巻第七 用薬

/病源と病状とを明らかにせずに服薬してはならぬ/薬を濫用するな/良医が薬を投ずるの法-温故知新/薬補は食補にしかず/薬を濫用するな/病気初発の時に良医にかかるがよい/衛生の道ありて、生の薬なし/薬性と製法の上から薬の良否を吟味せよ/薬の煎じ方に二類がある/一服の薬糧、日本において中国より少ない理由/薬量の少なきに過ぐるは可ならず/利薬の分量/補薬の分量/婦人の服薬量/小児の服薬量/利薬・補薬の煎じ方、用い方/補薬の用い方、人によって異なる/身体の大小によって服薬量を異にする/小児の、利薬・補薬の煎じ方、服薬量/古法を、国土・時宜に適するように改めて、服薬せよ/日本人に適する薬法・薬量を考えよ/煎薬に加える四味の役割/泡薬の用い方/泡薬は、日本に独自の煎薬法/補薬は、熟を用い、利薬は生(なま)も可なり/補湯服用中の養生/利薬の用い方/丸薬・散薬・煎湯・泡薬の効用性の特色/薬を飲む法/薬を煎ずるに人を選べ/症状と服薬法/中国の薬剤調合並に煎法と日本の場合との分量上の差/朝鮮の煎法は中国そのまま/煮散という煎じ方/甘草の使用量を、せめて中国人の、五分の一にせよ/生薑(しょうきょう)を加える量/棗を加えてはならぬ病症/日本人は淡白な品を食う。補薬を少なくし甘草を減らせ/薬を煎ずるには水を選べ/利湯を煎じるのに、滓まで用いてはならぬ/生薑の使用法/棗を薬用に用いるについての心得/服薬後の衛生/薬を服する前後に、たべてならぬ品々/補薬・利薬の煎じ方/補薬は小剤にして少しずつ服し、利薬は大剤にして、早く効を収む/薬を煎じる道具、砂罐と薬罐/利薬の煎じ方/中毒の解剤には冷水を用いよ/中毒した時の応急手当/酒を煎湯に加うる法/腎臓を養うの法/散薬と丸薬との用い場所、その一/同、その二/薬の調合には秤を用いよ/香の衛生的価値/悪臭を去る手当/大便の秘結した時の療法/丸薬より早くできる新製法/

巻第八 養老

/老いた親を養うの途/老人を養うこと、幼児を養うが如くせよ/年老いては、心静かならんことを念がけよ/心たのしく残躯を養え/老いて慾深く、気短くなることを、親は反省し、子は注意して奉仕せよ/老人の保養/気をへらさず、気を惜しめ/老人に対しては酒食の質をえらんで与えよ/衰老の人は寒・暑の外邪に気をつけよ/飲食する品質をよく選べ/老人を淋しがらせぬようにせよ/時々園圃に出て心をなぐさめよ/万事に無理のないようにせよ/七十歳になると、気体の衰え、顕著に進む/心の興奮を避け、日々を楽しく暮せ/老人は心を収めて、事を少なくせよ/朱子の食養生/風雨・大寒・大暑の時は、外出を避けよ/老いては小食を旨とせよ/老人には食療法が第一/こわき物と間食とを避けよ/日々を心たのしく暮せ/心と身とを養うのを専一にせよ/俗交・俗慮を去って、静閑を楽しむ/静養を旨とせよ/床几によりかかりて坐せよ/

-育幼

/三分の飢と寒との中で育てよ/外に出して外気にあたらせよ/小児の保養法は、牛山の養草に詳記してある/

-鍼

/鍼の効用と、鍼を用いる時期と病症/衰老のひとには、あらく鍼を刺してはならぬ/

-灸法

/灸の効用/灸の製法/艾の産地、かくとだにえやはいぶきのさしもぐさ/灸炷の大小と灸のすえ方/灸に用いる火の選択/灸をすえる姿勢と順序/不祥の時に際して灸してはならぬ/灸後の食養生/身体の強弱と灸炷の大小・度数/灸瘡を発せしめる法/阿是(あぜ)の穴に予め灸して外邪を防ぐ/一壮・二壮ずつ、毎日灸をすえることの効果/禁灸の日、ありとする説、信じがたし/小児に灸する時の心得/項に灸してはならぬ/灸治の効用と、二月・八月にすえる灸/要穴にのみ灸する/頓死者に灸する/衰老者への灸治の仕方/ひねり艾と切り艾/諸瘡、腫物の初期に灸をすえるがよい/灸治は午後がよい/

【和俗童子訓】

巻之一 総論 上

教育は早期から始めよ
/先入したものが一生を支配する/人は生れて五常の性を具備している-万物の霊長-/人を人にするには教育が必要/教育は予めするを先きとする/
よい人を選んで子供の左右におけ
もの食い、もの言い始める頃から教育を始めよ
/乳母の人柄を択べ/悪に染まって後に、教え始めるのでは遅い/高貴の子供ほど、早くから、きびしく教えよ/幽霊・化物などを持出して、おどしてはならぬ/大人の心のなぐさみに、子供を弄ぶな/子供を驕慢ならしめるな/
愛におぼれてはならぬ
/衣を薄くし、食を控え目にせよ/厚着をさせることの害/小児を戸外に出して、風と日とに当たらせよ/
乳母を択ぶ基準
/幼児は、よろずにつき、周囲の振舞いをまねる/
子供には義方を教えることから始めよ
/姑息の愛におぼれるな/
厳に、きびしく教えよ
/姑息の愛は、驕慢と私慾とを生産する/父と母と、その子の行状について隠し合ってはならぬ/
小児の時より礼儀と読・習・芸能とを学ばせよ
/衣服・飲食を簡素にして、窮乏に堪える生活に慣れさせよ/安逸に慣れると窮乏に堪えない/一人息子は、一層、困苦に慣れしめよ/
忠信の心情を養え
/子供を欺くことは、偽るすべを教えることになる/約束を重んずる風をやしなえ/
仁愛の心情をやしなえ
子供は早期より教えよ
/先入したものが主となる恐れがある/よい環境において、自然に善に移らせよ/躾け、礼法を身につけさせよ/
子供の好み・学びに、基準あらしめること
/道にそむき、人に害ある遊びをさせてはならぬ/一つの芸のみに熱中させてはならぬ/
父たり傅育者たるものの注意
/子供の好むところに流れるな/習癖のできた後に、戒めたのではおそい/
男児・女児の遊戯ーを好むは自然の情である。圧迫してはならぬ
/費え多き遊戯、博奕に似た遊戯を禁じよ/
礼は天地の常であって、人間の作法
/人のわざ、事毎に礼あり/
人と交わるに温恭の心構えを失わぬように躾けよ
/高位の人ほど、低姿勢をとれ/
矜は悪徳中の悪徳
/わが子の善行・才芸をほめてはならぬ/人に三愚がある(益軒の言葉)/
学習の初めに人柄のよい師匠を選べ
/正しい学術を選んで学ばせよ/まず「小学」の法から学ばせよ/
朋友を選んで交わらせよ
/朋友の与える影響—朱に交われば赤し/無頼の徒と交わらしめるな/
四民ともに学ぶべき学科目
/礼儀・作法、聖経、習字、算数/武士の子には武芸を併習させる/学問は本、芸能は末(経学は本、武芸は末)/書・数の二科は四民ともに学習せよ/算数を賤しむ日本の風俗は否/治者は領内の人口と年貢の収納高とを知って、政治・軍事の基本とする/高貴の子弟、かならず、算数を学ぶべし/音楽を学べ、しかし、おぼれてはならぬ/学問を専一にせよ/
富貴の家の子弟には、とくに厳しく学問を修めさせよ
高貴の子弟は、人を知り、世を知り、政を知るために、少年の時より学問せよ
/修身・治国の道を学ぶ/
高貴の子弟には、早くから善き師と良き近習とを附けよ
/諂いと虚偽との中で育ててはならぬ/良師と善良な近習とが、高貴な子供の、反省と判断とを助成する/悪しき師をつけるより、師のない方がよい/

巻之二 総論 下

愛・敬の心を本にして孝悌の道をおこなう
/愛・敬を、父母に致せば孝。兄・長者に致せば悌/
朝、師に学び、昼・夕に反復練習し、夜、一日の言行を反省する
弟子は己を空しくして師を敬い、学べ
/知ったと思うことでも、知らないとする心構えで学べ/
人の学ぶべきものと、その順位・軽重
/孝ということ/弟ということ/謹むということ/信ということ/汎(ひろ)く衆を愛す/仁にちかづく/行って余力あらば、文を学ぶ/経学を主として六芸を学べ/
己れに克って、学を習い、業を修めよ
/己れに負けて気ままに暮らすことの非/読書をきらう心の発生/家業に勤めるものの姿/己れに克つものこそ学成り業達す/煩に耐ゆるの心/
他人からの諫を、率直に受入れて、長く守れ
/同じ諫を、重ねて受けることのないように、気をつけよ/人の諫を受けつけぬ者は、身と家とを亡ぼす/
善に就き悪を去る志を立てよ
/択善去悪の志は、学問に先行する/
父母の恩を片時も忘れるな
子供に学問させることをいとう悪風
習い馴れる力を恐れよ
学問する法
/善と義とを実践するための学問である/心は純一にして、青天白日の如くであれ/善友を択び、悪友を避けよ/朝寝をせず、身づくろいを正しくせよ/朝に道を学んで、夕に実践せよ/
子供の時から迷信を作らせてはならぬ
/利慾のために、神に祈ってはならぬ/
十歳にして、家を出て学問所に居らしめる
/艱苦と規律と集団との中で、子を育てる/孝弟の道を、父兄では教えにくい/
父兄の咎めに遇った時、子供のとるべき態度
/怒りの色、恨みの色をあらわすな/
子供を咎め、戒める際の父兄の態度、言葉
/罵り辱しめてはならぬ/
小人の、悪のささやきに耳を傾けるな
父母に対して和気を失うな
みだりに人を誉め、そしってはならぬ
幼時より、老人の物語を、心をとめて聞け
/蒲生氏郷、老人の軍物語に耳を傾けた例/先祖の事績は、聞くに従って書き留めよ/
上智と下愚とは少ない。よく教えれば、善になる者が多い
/父の行状と心情とが子に移る/教育の効果/
子供の衣服は、派手ならず、上品なるがよい
農工商の子には、習字と算数と家業とを教えよ
/雑芸にふけると、家をほろぼす/
十歳以前から教育に注意せよ
/幼時の教育次第で、よくも悪しくもなる
/人の本性は善/
酒を多く呑まぬ習慣をつけよ
/酒を必要とする場/多酒の害/酒量多きは万病の基/酔中に、書状を出すな/
小児は言葉数を少なくせよ

巻之三 随年教法

六歳から始める文字教育
/数の名、方の名/和字の読み・書き/五十韻を平がなで書いて縦横に読ませ、書かせる/往来などのかな文の手本を習わせる/尊長を敬う/言葉づかい/
七歳の教育
/男女、席を分つ/(知力の発生)礼法を教え始めるが、その心にまかせて一々責めぬ/和字の読み・書き/
八歳の教育
/諸般の礼を教える/侍者より、子供へ孝弟の道を教える/弟。臣僕をいつくしむ/忠信・廉恥の道を教える/礼法をきびしく守らせる/真と草との字体を書き習わせる/大字を習わせる/読み、を教える/文句短きものを諳誦させる/
十歳の教育
/師に就いて学習させる/小学・四書・五経と武芸とを教え始める/
十五歳 大人の教育
/大学の道を講習する。とくに高貴の子弟に必要/身を修め、人を治めるの学/遅鈍の人も、二十歳までに、小学・四書の大義に通ぜよ/
二十歳の教育
/元服ということ/博く学び篤く行う/

巻之三 読書法

読むべき書は経と伝
/経は四書・五経/伝はその註/
読書する折の心構え
/読書・学習する際の身構え、本のとり扱い方/聖賢、君父の名を記した故紙のとり扱い方/
年齢並に学習年月の進歩と課業時間
/七歳、初学の半年は、食前の小時間のみ課業/
/心到り、眼到り、口到る、三到の読書法
/反復練習の効果/経伝の外、雑書を読みあさるな/
文学は簡要を選んで教えよ
/好んで、自発的に学ぶように仕組め/日々の課程を短く組みおくこと/師がなければ、父兄自ら教えよ/
教育課程の原則
/易きより難きに進む/教材としての単語篇(和漢名数)/十干・十二支、月の異名、国名・郡名、百官名/魚名づくし、草木字尽/三字経、千字類合、千家詩/単語篇を終って経書の短文にとりかかる。孝経、論語(学而篇)を先ず学ぶ/小学・四書・五経の順に進む/
返りよみの効果
/反復読習すれば学力進む/八歳より十四歳までの七年間に、孝経・小学・四書・五経の素読を終る/
単語・単句・複文と順次に学び進ませる
/初学には、一日に一字、二字、三字位ずつ教える/次に一日に一句を教えて、いく度も復読させる/一、二句をつづけて授け、つづけて復読させる/
句読、読み音、訓点を正確・明瞭に学ぶ
前々に読み了えたところを、今日授かった所と併せて、つねに復読する
善行も記憶も、積んで大となす途をとる
講義は、浅く短き章から入ること
/孝経(首章)・論語(学而篇)から始める/
読書の内に、文義を教える
/読書にとけこんで、文義をさとす実例/
時間をむだにせずに勉強せよ
/少年期は、記憶力がつよい。この期に学ぶがよい/
学習の要訣
/四書・五経を熟読すれば、文義をさとる基礎となり、文章を綴る力が養われる/
孟子を、とくに熟読・弄味せよ
/義理の学、文章の料に有益/作文の学としては、唐・宋期の文、三十篇を択んで熟誦する/
四書の内を、毎日、百字ずつ、百遍、空に誦し、空に書く
/四書の語句・文章を読誦すれば、学力、文章力の根柢となる。/四書、五万二千八百四字は、一日、百字ずつ読誦すれば、十七か月と十八日ですむ/益軒、八十歳で、この学習法をさとる/五経も日課を立てて、この方法で学ぶ/
史書の学習法
/国史ー日本紀以下の六国史、近代の野史/中国史ー左伝、史記、漢書、朱子の通鑑綱目/通鑑綱目は特に良書/
少年期の閑暇を、学習に利用せよ
/暇は身の宝、よく活用せよ/少年期の気力と記憶力と閑暇とを用いて学習せよ/
文字を学ぶことが、学問することの根柢

巻之四 手習法

書は、平正で、読み易いのを本意とする
/世用本位の書体、書風がよい/
初学から風体の正しい書を習わせる
/日本人の手本をまず習い、次いで中国人の手跡に進む/唐筆の代表的な手本/
古代の能筆を求めて手本にせよ
/手習の法/
唐様の古筆を学べ
/近世の唐筆を、手本にしてはならぬ/
真字は中国の古筆を学び、和字は和流の古筆を学べ
/世尊寺・清水谷などお家流の古筆を学ぶ/
習字の初歩教材ー数字・名数
あいうえお五十音図
/いろは歌は無用。片仮名は遅く教えよ/
墨のすりよう、筆のもちよう
/老草に書き習ってはならぬ/
双鈎という筆の持ち方
/日本流は単鈎に持つが、それは不可/
双鈎の方法—筆を持ち、筆を運ぶ生理
筆の持ちようの四法
/虚と円との方法/正と緊との法/
幼時は、大字より書き習え
/悪い筆で、良い紙に習え/
真字を書く方法
/横の筆画は細く、縦の筆画はあらくせよ/
指で筆を動かしてはならぬ
筆の使いようの法—蔵鋒
入木ということ
神彩を先にする
書奴ということ
墨はやわらかくすり、筆は堅く執る
手習後の硯水のつかい方
/筆に墨をそめるは、三分以下にする/
筆軸の持ち場所は、真・行・草によって異なる
腕法三種
枕腕・提腕・懸腕
字を学ぶには、真書を大きく書く稽古から始める
/真より入るは中国の古法/真を学ばずに草を習うと、誤字が多くなる/大字から入ることの効用/
字画をただす典拠
/説文・玉篇の首巻、字彙の末巻、読字彙の字体弁微/
書状には書礼を重んじよ
唐流には筆法一般についての慣例はあるが、個々の文字についての伝授はない
/和流には字毎に伝授がある。/
世間日用の文字を学べ
/人事・器財・制度の名、物品名、虫魚・草木の名/順和名抄・節用集・下学集は便利だが、誤りも多い。用いてはならぬ/訓蒙図彙・和爾雅・倭字通用例書、について学べ/
仮名づかいとてには
/開合の音と仮名のつかい方/和訓の言葉と仮名のつかい分け/てには、というもの/かかりと結びとの語法/

巻之五 教女子法

女児はひとえに、親の教え一つで育つものである
/男児は師友、世上の交際からも学ぶ/
幼時より女徳を養い育てよ
/女徳というもの/容貌よりも心ばえを本にして女人を選ぶべきこと/中国における善悪二つの先例/諸葛孔明の場合/容貌は変じがたし、心は改めて善に移すことができる/女徳の本源は和と順/和順ならざる女性の風貌/女徳の貌/
婦人は敬順の道を貴ぶ
/敬と順との関係/
主婦の仕事と任務
/家内における主婦のつとめ/家を保つ職分/
男は外を治め、女は内を治める
/内政をつとめるのが婦人の職分/女功を自らつとめよ/
女性の四行
/婦徳(女徳)、婦言/婦容/婦功の内容、(イ)裁ち縫い、紡み績ぎ、/(ロ)食物の調理/
女児七歳にして文字を習う
/古歌、数目ある句、短句・短文/孝経(首章)、論語(学而篇)、女誡/十歳以後の稽古事、織・縫・紡・績/小唄、浄瑠璃、三味線に親しませてはならぬ/女子に淫声を教える現代の風俗/伊勢物語、源氏物語を早くから見せるな/読み・書き・算数を教えよ/
婦人三従の道
/父・夫・子に従うの道/敬しむの一事を離れるな/
婦人七去の法
/子なきと、悪疾とは天命で、如何ともできない/父母・舅姑・夫に従わねば去る/子がなくても、妻を去らざる途がある/多言なれば去る/盗み根性の婦人は去る/七去の内の五つをつつしめ/
女児を幼時から、きびしく教えよ
/生家の教えが厳しくなければ、婚家の教えに耐えられない/
早くから女功を教えこめ
/女功というもの/
身を清潔に保つこと
男女の別をはっきり立て、貞節を守れ
/命にかけて貞節を守れ/和順と節義との異同/夫婦の間にも別を立てよ/
嫁する日の心得
嫁する女に、父母の教うべき十三か条
/一、生家の父母よりも舅姑を重んじ仕えよ/二、夫を主君と思って事えよ/三、小舅・小姑を敬い、いつくしめ/四、嫉妬の心をおこすな/五、夫を諫めるには、やわらかに、しずかに諫めよ/六、言葉数をつつしめ/そしりを伝えるな/七、油断なく家事にいそしむこと/織・縫・紡・績の仕事をつとめよ/遊芸を好み、宮寺などへ出掛けることを好んではならぬ/八、巫・覡・邪神に迷ってはならぬ/九、奢をさけ、倹約を旨として、家政の堅実をはかれ/一〇、夫の兄弟、親戚、朋友でも、男女の別を厳重に守れ/一一、衣服を派手やかに着飾ってはならぬ/一二、生家を先にし、婚家を後にしてはならぬ/一三、側近の下女の使いよう、取扱いよう/十三か条の結び/結婚用の器財、衣裳が華美にすぎる風習/衣裳より心の修養が大切/親たるものは、女子の教育に心をつくせ/
嫁しては、ふたたび生家に返されざるように心掛けよ
/人を許すは可、人から許されて住むは、本意でない/
心ざま悪しき病五種
/不知(無知)は五病中、一番重い病/

解説

| | Comments (0)

February 19, 2024

バーリン『反啓蒙思想 他二篇』

HMVネット購入。2021年11月23日注文。

書名:反啓蒙思想 他二篇
著者:アイザイア・バーリン
編者:松本礼二
出版:岩波文庫(2021年11月第1刷)

《目次》

凡例

反啓蒙思想 (三辺博之 訳)

{・・・ハーマンの主張は次の如き確信にもとづいていた。すなわち、すべての真理は特殊であって、決して普遍的ではなく、理性は何の存在も証明しえず、ただ現実にある何ものにも対応しない定型の中に事実を都合よく分類、整理する手段に過ぎず、そして理解とは人々や神との交信であるという確信である。彼にとっての世界とは、古いドイツの神秘主義的伝統にとってそうであったように、それ自身、一種の言葉である。事物や植物や動物はそれ自体象徴であり、神はそれによって被造物と交信するのである。すべてのものの基礎は信仰である。信仰は感覚と同じように、現実を知るための基本的な器官である。聖書を読むことは神の声を聞くことであり、神は人間に神の語りかけを理解させる力を与え給うたのである。・・・}

ジョセフ・ド・メストルとファシズムの起源 (松本礼二 訳)

ジョルジュ・ソレル (田中治男 訳)

{二 人間社会の事柄に関心をもつあらゆる哲学者の思想は、結局のところ、人間とは何か、また何でありうるかについて彼らがもつ考え方に基礎をおいている。このような思想家たちを理解するためには、彼らが自分の見解を擁護したり、現実の、また可能な反論に論駁したりするときに用いるもっとも強力な議論の中身よりは、こうした基本的な観念あるいはイメージ(それは暗示的にとどまっているかもしれないが、彼らの世界像を規定しているのである)を把握することの方が肝要である。ソレルはひとつの指導観念(イデー・メトレス)によって支配されていた。それは、人間は創造者であり、受動的に受けとり、抵抗する術もなく流れに押し流されているときではなく、想像するときにのみ、自己を実現するのだという考え方である。・・・}

解説(松本礼二)
索引

 

| | Comments (0)

February 11, 2024

『春秋左氏伝(下)』

上と中は約30年前に買ったが、この下だけはブックオフで5年ほど前に購入した。


書名:春秋左氏伝(下)
訳者:小倉芳彦
出版:岩波文庫(1989年5月第1刷)


《目次》


凡例
関連地図


昭公 541 B.C.-510 B.C.


定公 509 B.C.-495 B.C.


哀公 494 B.C.-468 B.C.


解説
系図掲載ページ一覧
列国大事索引

| | Comments (0)

January 30, 2024

『チベットの死者の書』

この本は1995年頃買ったようです。どこで買ったか不明。

書名:原典訳 チベットの死者の書
訳者:川崎信定(しんじょう)
出版:ちくま学芸文庫

《目次》

【第1巻 チカエ・バルドゥ(死の瞬間の中有)とチョエニ・バルドゥ(存在本来の姿の中有)】

/本書と本巻の題名/帰依を表明することば/本巻の構成について/

=序論=

/『バルドゥにおける聴聞による大解脱』のお導きを必要としない人たちについて/『バルドゥにおける聴聞による大解脱』のお導きを必要とせずに<ポワ(転移)>のお導きを必要とする人たちについて/この『バルドゥにおける聴聞による大解脱』のお導きを必要とする大部分の人たちについて/死におもむく際の諸徴候についての自分自身による観察と<ポワ(転移)>の適用/

=本論=

第一章 『チカエ・バルドゥ(死の瞬間の中有)における光明のお導き』

/第一の光明の体験/この第一の光明のお導きの導師について/この第一の光明の体験とお導きをする時期/『光明のお導き』の言葉/第一の『光明のお導き』のお授けの仕方/<チカエ・バルドゥ(死の瞬間の中有)>における、第二の光明の体験/

第二章 <チョエニ・バルドゥ(存在本来の姿の中有)>

/第三の光明の体験/

寂静尊の神群の現出
/一日目/二日目/三日目/四日目/五日目/六日目/七日目/

忿怒尊の神群の現出
/密教と顕教の差異/八日目/九日目/十日目/十一日目/十二日目/十三日目/十四日目/ヤマ(閻魔)王たちの現出/

結論
/奥書およびダーラニー(陀羅尼)/

【第2巻 シパ・バルドゥ(再生へ向かう迷いの状態の中有)】

/第二巻の題名/帰依を表明することば/

第一章 輪廻する迷いの存在

/バルドゥでの身体とその超能力/バルドゥの期間の長さ/シパ・バルドゥの恐ろしい幻想と苦しみ/ヤマ(閻魔)王の審判/自分の葬式を見る/六種類の迷いの世界/

第二章 再生のプロセス

/再生への入胎を避ける方法/胎の入り口を閉ざす第一の方法/胎の入り口を閉ざす第二の方法/胎の入り口を閉ざす第三の方法/胎の入り口を閉ざす第四の方法/胎の入り口を閉ざす第五の方法/意識のポワ(転移)/再生の胎の選択/まとめ/奥書/

【第3巻 付属の祈願の文書】

/本巻の題名/

第一章 『諸仏・諸菩薩による守護を祈願する文』

第二章 『バルドゥの根本詩句(六詩句)』

第三章 『バルドゥの難関からの脱出を祈願する文』

第四章 『バルドゥの恐怖からの主語を祈願する文』

補注

文庫版解説
初版あとがき
文庫版あとがき

| | Comments (0)

January 28, 2024

ジンメル『ジンメル宗教論集』

HMVネット購入。2023年4月14日注文。

書名:ジンメル宗教論集
著者:ゲオルク・ジンメル
編訳:深澤英隆
出版:岩波文庫(2021年12月第1刷)

《目次》

凡例

【一 社会学と認識論の視座】

※ 宗教社会学のために(1898)

※ 宗教の認識論に寄せて(1901)

{・・・神の概念からその存在を論理的にみちびきだしたり、存在の事実から神の必然性を演繹したりといったかつて犯された誤りは、宗教性のある特定の内容のみを正当なものと認めようとする教義的なこころみにも反映している。そうしたこころみにおいては、宗教的心情が内的矛盾に巻きこまれることなくながれこむのはその特定の内容のみである、と考えられたり、あるいは理論的世界像が生みだしたとされるその内容に対して、宗教固有の反応を論理的に強制できると考えられたりした。しかし宗教的なるものをひとつの形式的根本カテゴリーとして認識することによって、これらすべてから解放される。このカテゴリーは、存在のカテゴリーがそうであるのと同様に、たしかになんらかの内容を必要としてはいる。しかしやはり存在のカテゴリーと同様に、形式としてのその柔軟な性格は、それがになうことのできる内容の幅に表れている。結局のところこうした宗教理解こそが、宗教的感性を超越的対象との排他的なむすびつきから解放してくれるのである。
人間であれ事物であれ、この世の対象との感情関係のうちにも宗教的としか呼びようのないものが、数多くある。美的感性をもった人間と明白に美的なものとの関係、労働者とその興隆すべく奮闘する階級との関係、あるいは誇り高き貴族とその身分との関係、敬虔な魂と伝統や伝承されたものとの関係、愛国者と祖国との関係、熱狂家と自由や友愛や正義の理念との関係—これらの関係はすべて、その内容はたがいにかぎりなく異なっているにもかかわらず、おなじ心理学的調子を共有しており、それは宗教的なものと呼ぶほかないものである。というのもその調子は、希求と享受、あたえることと受けとること、謙遜と高揚、融合と疎隔の、あの独特の交錯として分析できるものの、それらから合成することはできない特有の統一をもつものだからである。私の確信するところでは、狭義の、超越にかかわるものという意味での宗教は、こうした端緒、宗教の原理のこうした渾然とした低次の表れが発展をとげ、先鋭化し、純化し、絶対化したものとみることによってのみ、理解することができる。
もちろんこのように言ったからといって、宗教そのもの、ないし宗教の内容の実質的な意義について、予断を下すものではない。そうした意義は、その歴史的・心理学的生成とはまったく別に、妥当性と検証請求をもつものである。・・・}

{・・・宗教的信仰の最奥の本性は、私にはむしろ以下のようにのみ表現できるものと思われる。つまり、宗教的信仰とは人間の心の状態、ひとつの事実性であり、理論的なものがすべてそうであるような、そうした事実性のたんなる反映ではないのだ。確かに知性も心のある特定のありかたである。ただ、私たちの本性全体のうちでのその役割について見れば、知性の過程そのものとそこに表れた現実存在のありかたは、知性の内容の背後に完全に退いてしまう。理論的存在者としては、私たちは事物の事実内容の非個人的なうつわとして、無であり、無関心な鏡である。その固有の存在は、鏡に映るものにくらべて、とるに足らないものである。認識に向かうとき、関心は認識を支える活動に向けられるのではなく、その認識に支えられる実質的内容に向けられる。私たちが宗教信者である場合はこれとは反対に、非信仰者や他宗教の信者と自分たちを区別するにあたって、私たちは私たちの意識が反映する内容の差異ではなく—この差異はここで探求されている信仰の概念にとっては特別な意味をもたない—私たちの心そのものの状態によって区別するのである。宗教的神信仰は、内的な存在のありかたである。それはもちろん理論的側面とその理論的帰結をもつものであり、また理論的に表現されることもあるかもしれない。ただ理論的神信仰や理論的神認識においては、私たちの心の状態は、なんらかの表象内容の、たんなる無私の、後景に退いたにない手でしかないのだ。
そして、神の実在への信仰のみではなく、宗教的心情が広義の神の認識と呼ぶものは、神をなんらかの表象内容として意識することではなく、神との心胸のうちでの合一の事実なのであり、またその合一は神への私たちの帰依と、神を現実の事象として受けとることにある。この認識の表象的側面は、そのたんなる鏡像にすぎないのだ。・・・}

【二 生・救済・人格】

※ 汎神論について(1902)

※ 魂の救いについて(1902)

{・・・キリスト教において、もちろんもっぱら断片的とはいえ、暗示されている魂の救いの理想に特徴的なのは、この私たちの人格の彫琢、人格の人格自身でないものすべてからのこの解放であり、自我の理念と法則にしたがってみずからを生き抜くことが、同時に神の意志への従属を、神の規範にしたがった生を、現実存在の終極的価値一般との一致を意味する、という点である。魂が求める救いとは、もしそれが魂のうちにいわば理念的な輪郭線であらかじめ描かれているものでなく、また魂が自分自身への途上で見いだすものでないならば、それは魂の救いではなく、味気ない、魂とは内的にへだたったなにかでしかないだろう。そこからすれば、さまざまな救済の概念のなかには、魂にその救いを強制的におしつけるようなたぐいのものもある。それは、さながら外部にある権力によってなされる、外からの命令や改造のようなものである。外面的な行いやドグマ的信仰に依存するこうした救いは、魂自身にとって偶然的ななにかであり、魂の自由を損なう強制である。宗教的な要請の内容がおのおのの人間自身のうちで現実となるとき、そして私たちにおいて私たち自身でないものからの解放が要求されるとき、そのときはじめて宗教的救済の場所は、同時に自由の王国となるのだ。・・・}

※ 生の対立と宗教(1904)

※ 宗教哲学の一問題(1905)

{・・・むしろいかなる場合であれ宗教においてあとに残るもの、またあの自分を信じきることもできないでいる批判的精神がそこに確固たる足場を見いだしうる場所は、宗教の教説のうちにではなく、いわばその下部にある、宗教において残り、充足をあたえるのはさまざまな心的な力や欲求なのである。それらはもちろんそのときどきのドグマの集合体においてのみそとに表れるが、しかしこの集合体に加えられる致命的な批判をも、ちょうど果実をもがれた樹がまた翌年果実を実らせるように、生き延びてゆく。宗教を生みだすものは、それそのものがすでに特定の信仰表象という意味での宗教だというわけではない。それはむしろはるかに一般的な、人間の存在の奥深くに埋めこまれている本能的欲求であり、内的運動である。ドグマ的な主張が、「真か偽か」という問いのまえに立たされ、打ち負かされてしまうのに対して、存在性は、すなわちそうした本能や欲求の事実性は、まったくこの問いの彼岸にある。宗教における永遠なるものは、この、なお宗教ではないが、宗教において生産的となり、宗教において終息点を見いだすあこがれなのである。
終息とは言っても、それは個人にとってのことであって、歴史的生は宗教的内容を休みなく生みだしては破壊するのであり、また一見したところこのうえなく堅固に存続している内容でさえも、たえず大小の改変にさらされている。・・・}

※ 神の人格(1911)

{・・・神の概念はあまりに多くの異なった歴史的内容と解釈の可能性に晒されてきたので、現代人にとってもはやいかなる内容によっても規定できないような感情が残るばかりとなった。それは、言うなれば、神の概念のさまざまに異なる規定のすべてに共通するものを表す抽象概念よりも、 はるかに一般的ななにかである。
これは信心のきわみとも呼びうるものだろう。というのも、いわばそこでは信じられているのみであって、信仰という形式そのものが、その内容をなおどのようなかたちであれ示しえないままに、魂のうちで作用しているからである。これは対象のがわから見れば、つぎのように表せる。つまり、存在の問いないし事実が、宗教的意識の論理において、優先権を獲得した。実在はいわばその内容を飲みこんでしまったのだ。・・・存在が信仰の対象なのだ。神がなにであり、いかにあるか、ということは悟性と直観と伝承が決める。しかしそれらによっていわばできあがったものとしてしめされる形象は、そのままではまだ、理念的でなお疑わしい概念として宙にういた状態にある。信仰がはじめて、その形象を存在の堅固さへと押しだす。この存在は、悟性や想像力の、たんなる量的・質的な規定によっては、まったく把握しえないものである。信仰とはいわば、存在そのものを私たちに伝達する感覚器官なのだ。・・・}

{・・・存在するものとしての神的なるものへの信仰を原則的に拒絶することはよしとしても、信仰するにせよしないにせよ、神をその理念において人格として描くことは、けっして神の人間化なのではない。そうではなくむしろ逆に、それは人間の自我を、ある存在様式についての全く一般的な概念のもとに置くことなのである。人間の自我がその存在様式の個別的で限定された事例であるのに対し、神はその絶対的な、世界的全体に相対するかたちでの実現たりうるのだ。
こうして私たちは人格のこの本質像をなお別の、いわばより集約的なかたちにおいてみることができるようになる。一にして同一である主客の内的な自己分離、他者を汝と呼ぶようにみずからに我と言う能力、自分自身の機能を自分自身の内容とする自己意識こそが、人格的精神の決定的な特徴であるように見える。自己意識によって、生はみずからのうちで屈折し、自分自身を再び見いだした—これは当然ながら、端的に一体的な作用を時間的継起へと引き離して表現したものにほかならない。人間精神が、その統一のうちにとどまりながら、それでもなお自分自身を自分自身に対し対向させること、これは根本事実であり、そう呼びたければ、精神の根本的奇跡と呼んでいいことであって、それが人間精神を人格的精神とするのである。自分自身の存在や自分自身の知をめぐる知に見られるような、知るものと知られるものの同一性は、ひとつの根本現象であって、これは一者性と二者性との機械的・数量的な対立のまったく彼方にある原現象なのだ。生命の道のりにあっては、その生体のあとにつづく瞬間のおのおのが、先行する瞬間によって生きるが、両者は異なるとともに、なおひとつの生命である。またそこでは産出されたものが算出するものを引きつぐが、両者は異なるとともに、なんとはなしに同一である。この時間的に延長された道のりは、自己意識においてうしろへと曲げ戻される。あるいはそこにおいて、その無時間的な根本形式を見いだす。有機体と機械的機構とをもっとも深く分けるのは、複数性がそこでは一体性へと統合されており一体性が時空間にしたがって見れば複数的な生へと展開されるという事実である。この事実は、人格的精神の本質において、すなわち自己自身についての意識において、さながら一点へと集約される。なぜなら、生あるものと精神一般の本質である「相互作用」は、自己意識において、つまり主体がそれ自身の客体であることにおいて、いわばその絶対的なかたちを獲得したからである。
ここにおいて神の本質である一体性が象徴化される形式は、もっとも純粋に表現されているように見える。宗教史学のがわからは、いまだかつて全く純粋な一神教があったためしはない、との主張がなされた。神の原理は、それが熾天使なり「諸霊」なりが神を支えるといった程度のことであったとしても、分裂への傾向を避けがたく自己のうちにもつように見えるのだ。そして、汎神論や、部分的には神秘主義にも感じられる神のまったき一性は、同時に現実の諸現象の複数性への、神のもっとも完全な解体なのである。
人格概念への接近は、以上で示されたものと思えるのだが、当然ながらここではことに注意深くそれを擬人論と区別しておかなければならないだろう。思惟は自己意識とともにその統一性のうちにとどまりながら自分自身の客体となるために、自己のうちで自己を分裂させる。この自己意識は思惟一般の根本事実であり、思惟のもっとも集約された類型にしてそのもっとも純粋で確かな形式であり、いわば個々の内容ある思惟すべての予型である。・・・}

【三 芸術としての表れ】

※ キリスト教と芸術(1907)

※ レンブラントの宗教芸術(1914)

【四 モダニティーとの相克】

※ 宗教の根本思想と近代科学 アンケート(1909)

※ 宗教的状況の問題(1911)

{・・・話を単純にするために、ここではまず決定的に、あますところなく「宗教的な本性」をもつ者について考えてみよう。純粋にそのありのままに見るならば、そうした本性をもつ者は、なんらかの所有物や能力のように宗教をもっているのみではなく、その存在が宗教的存在なのであって、いわばその人間は、ちょうど私たちの体が有機的に機能するように、宗教的に機能するのである。この終極的な存在規定は、そこここでさまざまなかたちをとるようなドグマのみをもっぱらその内容とするのではない。そうではなく、それと名ざすことのできる魂の個々の特性もまた、その内容をなすのである。例えば依存感情、希望の歓び、謙譲とあこがれ、地上的なるものへの無関心、生の統御などがそれである。
もっともこれらすべてはなお、宗教的人間におけるもっとも宗教的なるものではない。これらはいぜんとして、宗教的人間に発したもの、その人間がもつものである。これは芸術的人間がファンタジーや技術的巧妙さを、鋭く研ぎ澄まされた感覚と様式化の力をもっているのとおなじである。ところが芸術家の存在にあって、その人間を芸術家にする実質、それ以上の分解を許さないような統一性をもつ実質は、いわばあらゆるもののしたに隠れているのである。伝統的な理解は、おしなべて人間の宗教性を、「一般的な」エネルギー、すなわち感情や、思考や、倫理的ないし欲動的意志などの結合と変容のなかに見いだす。しかし実際には宗教的な魂の基礎的存在性こそが宗教性なのであって、これこそがいまあげた魂の一般的な、あるいは特殊な諸性質に、色あいとはたらきとをあたえるのである。いわばあとになって(これは時間的先後関係の意味においてではないが)はじめて、この宗教的根本存在は、欲求と充足に分裂する。それはちょうど芸術的存在性が、創造衝動と客体的な作品という形成物との相関において表れるのとおなじである。
こうして欲求充足へのこの分離とともに、宗教的人間の自然な特性としての宗教性に対して、なんらかの宗教的対象が客体として対置されることとなる。・・・}

{・・・フォイエルバッハの思考の歩みは、この地点のわずか手前で脇にそれてしまっている。フォイエルバッハにとって神とは、みずからの必要性にかられて、みずからをみずからのうちから無限性へと高めて、そしてそのようにして成立した神に救助を求める人間のことにほかならない。「宗教とは人間論である」〔『キリスト教の本質』序文に見られるフォイエルバッハのことば。正確には宗教ではなく神学〕。こうした転換によって、フォイエルバッハは超越的なるものにかたをつけたと考えた。なぜなら彼は人間においてただ個々の心的事象の経験的なながれ以上のものを見なかったからである。だがしかし彼はこう考えるべきであった。個別の事象を超える形而上的価値は、人間が宗教的であることそのもののなかにあるのだ、と。・・・}

※ 現代文化の葛藤(抄)(1918)

【五 宗教/宗教性と社会】

※ 宗教(1906/1912)

{・・・人間にとって、おなじことが自分自身に向かいあっても可能であるということは、人間が主体と客体に分裂し、自分自身に対して第三者に対するように向かうことができるという能力による。この能力は、私たちの知るかぎり、世界の他のどのような現象にも類例がないものであり、またこの能力が私たちの精神のありかた全体を基礎づけている。自己と他者と神への信の結果がこのようにたがいに幾重にも類似したものであるということは、たんにこれらが、おなじ心の緊張状態が社会学的対象の違いによってさまざまに外化したものであるにすぎないことによるのである。
この宗教的意義を超えた、どのような純粋に社会的な意義をもっているかについては、これまでまったく探求がなされてこなかった。しかし私は、信仰なくしては私たちの知る社会は成り立たないだろう、と確信している。私たちが、あらゆる証明を超えて、あるいはしばしばあらゆる証明に抗して、ある人間ないし集団への信を堅持するということ、これは社会が関係性をもつための、もっとも強固な紐帯のひとつある。たとえば服従の関係は、非常に多くの場合、他者の権利や優越性についての明瞭な知識にもとづくのでもなければ、愛や暗示にもとづくものでもない。そうではなく、他者の力や業績や抗いがたさや善意に向けられた、あの「信」にもとづくのである。この信はまさにたんなる理論的仮説のような想定なのではなく、まったく固有の、人間間に生成する心的形成物である。この信はまたけっして、それがみずからの対象の価値として表象する個々の性質に向けられるのみではない。それらの性質はどちらかといえば偶然的な内容であって、それらの性質において、他者に向けられた形式的情調と傾向、すなわちその人間への信と呼ばれるものが、自己を対象化し、表明可能となるのである。
この信は、社会的力として、当然ながら他のあらゆる知的・意志的・感情的結合力と結びつくが、その純粋で、それ自身に対してのみ作用するような形態は、神信仰において表れる。それは拡大であり絶対化であって、それによってあの低次の混合した信の表れの内なる信の本質を、いわばはじめて目に見えるものにしてくれるのだ。この神信仰において「あるひとを信じる」というプロセスは、社会的相手から解放され、その対象の内容を自己自身のうちから生みだした。これに対し、その社会的作用においては、このプロセスはすでに異なる秩序において所与となっている対象を見いだすことになる。この信が宗教的となるのはしかし、それが超越的なものに適応することによってではない。そうした適応は、信のひとつの基準であり、表現様式にすぎない。そうではなく、信は、あらかじめ形式上宗教的なのである。自我の束縛と拡張、信自身のうちにある鋭さと盲目さ、自発性と依存性、贈与とその贈与の内に潜む受容〔本書321-322頁参照〕などの綜合によって、信は宗教的地平の一部分をなし、その地平に人間相互の諸関係が投影される。その地平は宗教という名とその一般的な概念を超越的形象から借りるが、しかしけっしてその本質をもっぱら、その地平のなかに描かれ、その構造を確かにもっとも純粋に掲示する超越的形象から借りるわけではないのである。・・・}

{・・・キリスト教の神以外の神々はキリスト教のみならず、世界全体から拒まれなければならない—神とつねに個別的なものにとどまらざるをえない社会的一体性との連帯とは対照的に、このように言明することで、キリスト教はとてつもない転換をもたらした。キリスト教の神はその信徒の神というだけではなく、存在するものの神そのものである。従ってキリスト教には、あの神の所有ということがもつ排他性やせちがらさが欠けているのみならず、逆に当然の結果としてキリスト教は、その神をすべての魂の承認するところとなるよう努めなければならない。なぜならいずれにせよキリスト教の神はすべての魂にとっての神なのであり、すべての魂がキリスト教を信奉するようになることは、すでにある事実をたんに確認するものにすぎないのである。・・・
・・・
他の神がたんなる他者の神ではなく、誤った神、つまりまったく存在しないはずの神であるとき、論理的に言って寛容であることは矛盾となる。これは不寛容が個別主義的宗教にとって矛盾しているのと同様である。当然のことながらここで、まさに神の原理の絶対的な高みと有無を言わさぬ唯一性ということから、あるあらたな寛容が生まれる。すなわち、唯一の一神にいたるはさまざまでありうる、との考えかたである。個別主義的宗教は宗教の終極的内容、すなわち神の概念については、寛容でありうる。しかしその神概念の狭さや親しさと、神との関係の特殊性のゆえに、そこでは神にいたる道が複数あることは認められない。つまり神にはただ、あるまったく特定の供犠や祈りや行動様式によってのみ到達できる。これに対しキリスト教は、宗教の終極性については不寛容だが、神の意にかなう活動や内的状態については、比類のない幅でこれを認めることができる。・・・}

{・・・肝に銘じておかねばならないことだが、宗教現象そのものの精確な発生論的解明を為しえた者などは、これまでだれひとりいなかった。いままで言われてきた宗教の「起源」、すなわち恐れや愛、困窮や自我意識の増長、畏敬の念や依存感情等々には、まさに決定的なものが欠けている。すなわち、一体なぜこれらの経験的な情動が突然宗教的段階へと立ち至ったのか、という問いへの答えである。
さしあたっての、そしてまた実際に適切とも言える答えは、これらの情動のある種の量的昂進がその情動を他の性質へと変容させるのであり、宗教意識のある閾値が存在するのだ、というものである。だが、なぜこのあらたな性質がほかならぬ宗教的なものであるのか、という問いがなお残る。よく見てみると、宗教性はその導出と称するもののうちに、すでにひそかに前提とされている。そうであるならば、あらかじめ宗教性を、第一次的で他から導出できない性質として認めたほうがいい。この前提のもとに、さきにあげた宗教性の起源と言われるものとの関係もおそらくより納得のゆく意味をもつ。すなわちこれらすべての要因は—もちろん漠然とした無原則な表現だが—、心性の特定の質的な過程のながれにある種の方向性と律動と綜合をあたえる形式的な緊張状態であり、まったく一般的な心性の運動様態であると思われる。もちろん—これについてはここでは暗示するにとどめなければならないが—それらすべての要因、すなわち愛や恐れ、依存と帰依等々はなおいわばあまりに質料的に過ぎるのであって、あの心理学の論理にならって心的構造を概念によって理念の地平へと投影するためには、なお一層一般的で純粋に機能的な根本的動性と内的な根本関係を把握する必要がある。これらは、特定の感情や運命や関心が推移するさいの様態、例えば宗教的か社会的か、あるいは芸術的か倫理的か、を規定するであろう。そうした、なお心理学的な定式化のなされてない心的な現実存在一般の集中と緩和において、その存在の音律の律動的転換、憧憬や失望や抵抗や均衡の一般的動態の転換においても、私たちはもちろんなおあの大いなるカテゴリーの起源に接してはいないだろう。本論の冒頭で述べたように、この大いなるカテゴリーは、それぞれひとつの世界を創りだす力をもっている。とはいえ私たちは、そのようにしてでき上がった諸世界の現実的・理念的な関係については把握するだろう。ひとつのカテゴリーが他のカテゴリーからの影響にふれて示す同様の法則的経過や先行形成については、本論で特定領域の例についてわずかながら示した通りである。・・・}

解説
訳者あとがき

 

| | Comments (0)

«『リグ・ヴェーダ讃歌』